2015年11月24日火曜日

叫び論的演技論 その1

演技とは叫びであり
また叫びでなければならず
それはつまり魂の叫びのその形だ

それはカタストロフを肯定する
それはシニフィエを肯定する
それはこころのなかの言葉にならぬ
言葉にできぬ空明を肯定するのだ

こころの表層の裂け目を肯定し
こころの深層の破れ目を肯定し
見えないこころの叫びが現実態となることを肯定するのだ

どうして叫ばずにいられよう
このいまのテロの時代に
テロを起こす側も
テロに脅かされる側も
そしてテロを起こすように圧力をかける側も

劣等感も恐怖も不安も
喜びも切なさも死も
すべての表現は叫びであり
叫びは届けられなければないことを

宛名のない手紙のように
まれに不確かだとしても

そこへ

2015年7月13日月曜日

エティカルであるということ(あるいはハムレット)

倫理的なというと誤解されるから
エティカルなと言おうとボクは思う。

エティカルなというのは
「自分のほんたうの声にまっすぐな」というような意味だ。

そしてほんたうというのは
なにがいちばん良いことか
それを考えずにいられないということだ。

なかなか、ある組織ある集団のなかにいると
「自分のほんたう」を口にするのは難しいことだろう。

いやそう思って悔いてる人はまだしも
「自分のほんたうの声」が聞こえなくなっている
そんな人がかなり多い気もする。

だからエティカルであり続けることは
なかなか簡単なことでなく、
無闇に人のことは言えないのだけれど、

あの安倍晋三という男の言動を見ていると
あれはしんじつエティカルなものではないなあと思う。
あの男はすこしも「自分のほんたうの声にまっすぐに」行動してるようには
ボクには思えない。

あれはなんなんだろう?
あれはなにかにたましいを奪われた者のように見える。

あの自意識のうすいそらとぼけた嘘のつき方
なんとも屈折率の少ないまるでロウ人形のような
いけしゃあしゃあとした言葉のごまかし方やすり替え

ああいう言葉が「自分のほんたうの声」でないのはもちろん、
ああいう言葉を発するその底にある衝動や信念がそもそも
あの男の「自分のほんたうの声」なのかどうか
ボクにはわからなくなるのだ。

仮にあの男の信念が「日本を戦争ができる国にすること」だとしよう。
また別のなんでもよい、なにか歴史に対する
また民主主義に対するなんらかの反動的なものだとしよう。
(たぶんそうなのだが)

そうした信念ないし衝動があの男の根底にあるとして、
ボクにはそれがあの男の「自分のほんたうの声」ではないように感じるのだ。

これはなんなんだろう?

はたして
なによりエティカルでありたい、
自分のほんたうの声にまっすぐでいたいと、
なにがいちばん良いことかほんたうにほんたうに考えてかんがえた結論が、
日本を戦争ができる国にすることだと
歴史に対してまた民主主義に対して反動的な信念を持つことだと
ほんたうに?
ほんたうに、人はしんじつ言いうるのか?

そこでボクは愕然とする。

ほんたうにその結論なのか?
なにがいちばん良いことか
考えてかんがえ続けることをどこかで放棄していないか?

ボクは悲しくなる。

あの男は亡霊なのだ。
なにものかにたましいを奪われた亡霊なのだ。
あるいはなにかの亡霊によってあやつられている抜け殻にすぎないのだ。

あの男のエティカルな
「自分のほんたうの声」はたぶんその肉体のなかにまだ在るのだろうが
その力は微塵も残されてはいないかのようだ。

だがはたしてその亡霊とはなんなのか?
あの男(=またわれわれ)のエティックを制圧し、
あの男(=またわれわれ)の信念を操っている亡霊とは?

永久戦犯の祖父の怨念か?
極右組織の威力か?
経済界か? アメリカか?

ボクにはわからぬ。
わからぬだけにおそろしい気もするが

(敵はそいつ)

ハムレットならばたかが亡霊にすぎぬと云うだろうか。







2015年4月18日土曜日

たましいの問題

いまや国内のだれも政府に反対も批判もできないなか、沖縄だけが本気で対峙できるのは、利害関係が端的に敵対しているからだ。譲れないからだ。
いまの政府の構想つまり「美しい日本」だとか「強い日本」だとかいうくだらない幻想のなかに、沖縄はそもそも入っていないからだ。

これまでしいたげられてきた沖縄の人々はそのことをいま鋭く感じ取っている。政府の「日本」というカテゴリーの中に沖縄は入っていないのだ。「うちらはやっぱり日本じゃねえ」

だからお金よりも振興策よりも、「たましい」の問題を彼らは選択した。
辺野古は沖縄の人々にとってたましいの問題なのだ。

+++

ひるがえっていうと、反対も批判もできないのは、そのくだらない幻想のなかにいるからだ。

2015年3月23日月曜日

オウムの犯罪と日本人の思考停止状態について

オウムの事件について僕が思うことは、あの1995年3月20日の事件から数週間のあいだに日本人の心理と社会に起こった地殻変動のこと。あれ以来、日本人の思考は一部停止状態にさせられていること。

そのことのほうがオウムが企んだ呪いではなかったかということだ。

当時、僕はやや暇な身分だったので日中からテレビに釘付けだったけど、あのときブラウン管の向こうで起こったドラスティックな変化には唖然としたものだった。

事件直後からオウムへの疑惑は起こった。しかし当時のテレビ局を含めマスコミというのはいまよりずっとリベラルだったし、反政府組織への理解と存在意義をちゃんと認めていた。

否、マスコミの意義そのものが政府を批判するべきものだという自覚があったのだ。

テレビは、あの日々、事件から数日のあいだ、オウムからは上祐氏を迎え、オウムを批判する論客はもちろん擁護する論客もいっせいに出演させて、偏ることのない議論を昼も夜も放送していた。

しかし警察が上九一色村のオウムのアジトへ突入し、やがてその犯行が明らかになるに従って、ある日テレビも人々もいっせいにひとつの潮流へどっと流されていったのだ!

一気にだれもが「オウムはとんてもない悪だ」「絶対的に滅ぼすべきである」となった。まるで、人類の歴史が結核菌や天然痘ウィルスを撲滅してきたように。

あの、ひそかに遂行された、たしかなドラスティックな変化。
あれほど根源的に戦後の日本人の心理と社会を変えてしまった出来事はなかったのではないか。

人々のこころがザザッと変化してしまったとき、僕は呆然とした。

あの日以来、日本の人びとは、この世に「絶対的な悪がある」と思うようになった。

それから9.11があり、ISの出現があり、いまも僕らの思考は停止したままだ。

「いかなる者らであろうとも、人間のやることに絶対的な悪などないのだ」
と、大声で云えるような、リベラルな空間はほんの限られたものになってしまっている。

オウム事件はいまだに解明されていない、と云うが、
だれに解明できるだろう、それが愚かでありながらも、それなりの思慮も判断力も欲望も備えたたしかに人間たちの営みであったことを否定し、菌やウィルスと同等の存在理由しか与えない社会に。

もっとも日本は、近隣諸国を苦しめ虐殺するようなあんな戦争をなぜ起こしてしまったのか、それさえ解明しないままあいまいのままやってきたのだから。
すべてはあいまいのままでいくのだろう。

(というよりも、当時、戦争を犯した罪と責任をいまだ清算しきれていなかった戦後日本人の懊悩が、「絶対悪」の出現によって一気に解消されたようなごまかしが起こったのかもしれない。あのころはたびたび起こった戦争責任論の無限ループ論議が、あれよりいまはなくなったように思う)

あの日「オウムを絶対悪だ」と決めた日から、日本人の思考は停止していると思う。

あれがいかに残酷な犯罪だったとしても、人間の行う営みに「絶対的な悪」などというカテゴリーはないのに。

なぜオウムが生まれなければならなかったのか。
なぜ多くの優秀な理系の若者がオカルティックな宗教団体に惹かれていったのか。
あのとき、あのような集団が生まれるべき理由がたしかにどこかにあったのだ。

そういう角度で語られる言葉は現在の日本には少ない。

あの日々、あえてテレビに出演していた中沢新一さんがよく言っていたことは「盥の水といっしょに赤子まで流してはいけない」という警句だった。

そこには赤子がいたんだ。と僕は思う。
赤子とともに多くの闇が潰されたんだと思う。

それ以後の、神戸の事件も佐世保の事件も秋葉原も名古屋の女子大生も、オウム以後の閉塞感と関わっているように思うし、

当時あった日本社会の歪み(それはいまもあると思う)、それが分からないかぎり、「絶対悪」で済まされてしまうかぎり、そこで日本人の思考は絶望的に停止したままだろうと思う。

2015年3月18日水曜日

2011年3月19日の日記から

 2011年3月19日 快晴

 空は晴れ、世界にはまんべんなくあたたかい陽射し。たまさかの僥倖。
 本日東京の放射線量は0.047マイクロシーベルト毎時。平常よりはまだ多いが、国際原子力機関が「都内に健康上の危険はない」と発表したせいか、テレビもいつも通り平凡になったし、みんな街に出てにぎわうべきところはにぎわっているようだ。しかし被災地の状況はいまだ全体が見えず。いまも救援がないままに取り残されている人たちが海岸部に点在している。
 僕はまたひとり。ペダルを踏む力に汗ばんで、脱いだダウンジャケットを自転車のカゴに突っ込んだ。見上げると、四日前にはまだ固かった白木蓮の蕾がふくらみ始め、寒桜の葉もやわらかく空に伸びていた。
 図書館に寄り、もはや僕のなかで古びた本を返し、駅前のデパートでまたいつか会えるときのために彼女へのプレゼント(白木蓮色の下着だ)を購うと、まっすぐ南下して多摩川の川辺りに出た。
 おぼろげな、春めいた空気のなか、キャッチボールをする親子やサッカーチームの練習風景はいつも通りの河岸の景色だ。頭上に広がる大空は、くすんだ空色から柔らかな桃色へ、たしかにうつろう春の夕暮れの空だ。あと十数分もすれば陽は落ちるだろう。
 岸辺近くに大きな柳の木が一本。空に向かって新芽をライトグリーンに輝かせ、無数の椋鳥たちの棲家となっていた。なにを合図にしているのか、いっせいに黒豆のような椋鳥の影が何百と大気を揺さぶり飛び立つ風景に、こちらの心まで乱された。
 鉄橋の上を列車が走って行った。振り返ると、かすんだ西の空を、陽は今まさに沈み消えようとしていた。
 僕は目を凝らし、見つめる、自分の眼で。遠く多摩丘陵の稜線に欠けていく、光の真円を。それは地平の底へ向かってじわじわと小さくなっていく。現実には、太陽が沈んでいくのではないと科学は言う。動いているのは自転している地球のほうで、太陽が沈んでいくように見えるのは、地球上からの視点が被る「錯覚」にすぎないと。けれど「現実には」という、その「現実」とはどんな「現実」なのか。地球上からの視点もまた一つの視点ではないか、とも僕は思った。
 ——目に見えるものを信じるか、見えないものを信じるか?
 人類は、これまで徹底した実証主義によって科学的真理を積み上げてきた。だが一般人にとって、その真理が日常経験と異なる時あるいは目に見えない時、それが真である根拠は、「科学(あるいは教科書)がそう言ってるからそうなんだ」と「信じる」こと以外にない。地球が太陽のまわりを回っている風景を見ることはできないし、またインフルエンザのウィールスが体のなかで暴れている姿を見ることもできない。同じように、いまこの上空をどれだけの放射線が飛んでいるか、どれだけの放射線を体内に蓄積すると有害となるのか、それらが目に見えず、計測機器もなく、また経験もない以上、われわれはまず科学的真理≒情報を「信じる」よりほかないのだ。にもかかわらず、その情報をどのように「信じ」、そこからどのようなアクションを起こすかは、まったくもって個々人にかかっているのだ。
 いま西の空で、命尽きるように地平の底へ沈んでいった太陽は、僕の目には沈んでいったとしか見えなかった。
 沈んでしまうと空はさらに激しく燃え出した。それは、日没点を中心に黄色から濃いオレンジ色へグラデーションするラジエーターだった。自然界の放射性物質だった。そして、主観的にその「印象」を言えば、それは、没する者の悲痛の叫び、爆発的なメッセージ、まるで革命家の血のように、詩人の涙のように、辿り着かない永遠に向けて最期の光を放っているようだった。
 その外側からははやくも藍色の闇が滲み寄ってきて、夜の藍と日の名残りのオレンジとが重なり合う中間領域は、不思議な飴色に輝いていた。
 僕は自転車を降り、流れる川の水際まで、枯れ草色の葦の茂みをかきわけていった。水際は小さな崖のようになっていたが、釣り人がつくった窪みまで降りると、そこは足元まで水に触れられるほどの低さだった。そして波打つ水面には、あの上空での色彩のせめぎ合いがそのまま、まるで鏡の向こうの世界のように反映し揺らめいて、立ち尽くす僕の濡れた足元にまでしたたかに届いているのだった。
 そのとき、葦の茂みの向こうの闇から声がした。姿の見えぬその声は、ひそひそと軽やかで、よく聞くと、一人の女子学生が熱心に友人に学校での恋を相談しているのだった。
 でねえ……そうなんだけど……だってえ……でしょ……でも……ああどうしよ……
 ああ、陽はまた昇るんだ、と僕は思った。
 この世界にはまだ、見えないものへの恐怖より、見えないものへのときめきがある。あの断末魔のようなオレンジ色の死は、再びまぶしい産声となってかならず東の空に帰ってくる。それは願いでも希望でもなく、生の事実なんだと。

 ハンドルを握って堤防の上まで一気に駆け上がる。空はますます墨を流したように暮れていったが、そのまだらのなかをまだ多くの市民が当たり前のようにランニングしたり散歩したりしていたのだった。

2011年3月18日の日記から

 2011年3月18日 快晴

 午後2時46分。黙祷。目を閉じると、あのめまいのような揺れが体のなかで続いてるのを感じる。ちょうど一週間分の記憶。

2015年3月11日水曜日

2011年3月15日の日記から

2011年3月15日 曇りのち雨

 涙が流れてきそうな冷たい空だった。
 彼女はもうフランスへ帰ってしまったし、僕は朝からひとり毛布にくるまって、空からいま通常の30倍を超える値の放射性物質が舞い降りてきているというニュースを聞いていた。「ただちに人体に影響を与える濃度ではない」という。だが世界はもう目に見えないところで決定的に壊れはじめているのではないか。見えないものの恐ろしさにおびえ、僕は強い孤立感を感じていた。
 それでも、それは今日東京でまだ生きている僕らへ、被災地から届いた物理的「現実」なのだ。ここで逃げたらこの先もずっと逃げることになるだろう。
 ボクはテレビを消してネットを切ると、厚手の靴下にトレッキングシューズ、毛糸帽を目深にかぶってマスクをして部屋を飛び出す。長いこと、身も心もすくめて情報に身を晒していたせいで、腰から首にかけて筋肉が引き攣っているようだった。
 ペダルを強く踏む。主人のいなくなった桃園が見える。いつのまに咲いたのか、濃いピンクの点々が灰色の空に滲んでいる。まっすぐに伸びた枝も、暖かみのあるオレンジ色だ。いつのまにか春は近づいていた。
 近くの畑にはペンペン草がもう生えて、その隣には名前を知らない紫色の花。向こうには、山茱萸やミモザの畑が黄色い炎となって燃え立つよう。同じ黄色でも、山茱萸は垂直に伸びた小豆色の枝に一粒一粒灯るような濃い黄色で、ミモザの花はライム色の小葉に守られて、ひとかたまりに圧縮されてはじける炭酸飲料レモンイエローだ。枯れたミモザの葉や枝がやさしいサーモンピンクなのも初めて知った。よく見ると、畑の土までぼんやり暖色を帯びている。
 またペダルを踏む。この辺りで唯一武蔵野の自然が残っている雑木林に入る。木々の枝はまだ黒く裸のままだが、落ち葉のあいだから伸びた草の色はやはり暖かい。そのなかをついばむものを探して、ツグミたちがヒヨヒヨ歩いている。僕も自転車を降りて歩いていく。黒々とした林の尽きるところで、大きな白梅の木が煙るような薄桃色に発光していた。
 近寄って見ると、花弁の白と萼の赤のなんと潔い鮮やかさ。中心の蕊の黄色は星の形だ。小さな花火のように、一輪一輪が冷たい空気のなかで震えている。太い幹から直に伸びた若枝に並んで咲いているのも、まるで精霊のつくり物のようだった。
 離れ際なんども振り返り、白い空、黒い林を背景に、薄桃色が半透明に燃え上がるのを見た。木全体が凛とみなぎっている気配。世界は生きているのだ。

 さあ、雨が来る前に街まで辿り着かなくては。僕はさらに強くペダルを踏んで、坂を上がって行った。

2015年3月6日金曜日

先日、憲法のほんの一部を訳してみて感じたこと。

やはり僕らのこの憲法は、激しい戦争が終わったあとの厳しい時間のなかで編まれたもので、そのときにしかない、異常なコアな熱い思いを、英文の原典はいまも確かにくっきり残しているってことだった。

それは戦後の日本の社会を刷新するために、この憲法を草案したアメリカのリベラルな若者たちの渾身の夢であって、その理想の高さと誠実さに胸が熱くなる。

ここには、ほぼすべて西洋文明が勝ち取ってきた市民革命の、すなわち民主主義の価値観がそのまま表現されている。僕ら日本人は西洋のように、この価値観を革命によって勝ち取ったわけではない。しかし革命よりさらに悲惨な敗戦によって「勝ち取った」のだ。
これを手放すことはできない。できない!

できない!

いま、自民党が出している憲法草案は、そういう歴史から得たのものをすべて(平和主義も基本的人権も国民主権も)排除している。

あるいは意味をなさないような形に「言葉だけ」残しつつ形骸化しようとしてる。
僕の訳した97条のところも、自民党草案ではきれいさっぱり削除されていて、

彼らはこの国を、戦前のような戦争国家、英米と肩を並べらるような列強にしたいのだろうが、

そんなことは許さない。

そんなことを、いまこの国の人々が本気で許すだろうか。

2015年3月4日水曜日

憲法翻訳トライヤル その1

僕らの国の憲法の原文は英語です。
ということは翻訳の自由はあるんではないか。

誤訳は許されないけれど(たぶん誤訳しているだろうけれど)。
訳すということはテキストを読み、理解するためのいちばんの初手です。

ということで試みに、97条を僕なりの言葉に訳してみました。

+++++

第97条 本源的な人間の権利、つまりこの憲法が日本の人々に保証する「基本的人権」とは、人類が長いあいだ自由になるために闘ってきて得た一房の「果実」なのだ。それはくり返し厳密な検証によって「永続性」が証明されてきたものだ、そしていまの世代から未来の世代へ、いついかなるときも侵されざるものとして確かに託されてゆくべきものなのだ。

+++++

ここは憲法「第10章 最高法規(Supreme law)」のなかの1条です。
憲法のキモのキモでもあります。
ちなみに自民党の草案は「最高法規」の部分からこの「基本的人権」の概念をすべて削除しています。

ったく!

ちなみに原文はこれです。

article97:The fundamental human rights by this constitution guaranteed to the people of japan are fruits of the age-old struggle of man to be free; they have survived the many exacting tests for durability and are conferred upon this and future generations in trust, to be held for all time inviolate.

そして、現行の翻訳はこれです。

第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

2015年2月27日金曜日

軍隊とは? と考える夜。

いま日本は軍隊を持っていない。
自衛隊は軍隊ではないからだ。

軍隊とは自国益のために他国の
人を殺す「権利」を持ってる集団のことだ。

「人を殺す権利」

そんな「権利」が理論上ありえるか。

人を殺す欲望

なら、ありえるだろう、
だがそれは「権利」には至らない。

なぜなら、
欲望=意思において「殺したい」という現実が在ったとしても、
しかし、その「殺したい」思いの結果=成果が
その行為者にとって最善であったかどうか、それは結論できないから。

なぜなら、
人は人と協働することにより利益を得ても、
人を殺す=現存在を抹殺することによっていかなる利益が得られるか正確には想像できないから。
もしもその行為が行為者に最善のものをもたらさないのだとしたら、
その欲望=意思は、その人(行為者)の「権利」だったとはいえない。

むしろ、その欲望=意思そのものがその人にとっての害悪だったと言われるだろう。

ボクはそう考える。そう考える人間だ。

よって、「人を殺す権利」を主張するような軍、軍隊とは、
人間精神にとっての矛盾であり、というより思考停止状態であり、

僕らの叡智の結晶である現憲法からいっても、、まったく相容れない概念だ。

2015年2月18日水曜日

沖縄のこと その4


栄町を出てから桜坂の方へ、
那覇に来るとボクはたいていここらの路地をウロウロする。

そして浮島通りへ

今回の旅のおまけに、いちばんさわやかだった発見は、桜坂から浮島通り、さらに国際通りを横切ってニューパラダイス通りに美味しそうなカフェーやかわいい雑貨店、器屋さんなんかがポッポッとできていたこと。
初めて那覇に来た時から浮島通りはいちばんオシャレな通りだった。もう10年前のことだ(ポールスミスのアウトレットショップとかあったし。いまもあるし)。
それが今回の旅ではググッと進化していた感じ。

そんな浮島通りの小さなアクセサリーショップのオーナーにふと話を聞いたり。

ー カフェとか雑貨屋さん、すごくないですか。

ー 僕もそうですが、3.11のあと移住してきた若い人たちがたくさんいるんです。みんなでがんばっているんですよ。あ、これどうぞ。

と、浮島通りからニューパラダイス通りまでを網羅した散歩ガイド。

ー へえ。さっき栄町へも行ってきたんですが、なんか那覇がまた楽しい街になってきていますね。

ー そうなるといいんですけどね。

コザの暗さのことを話したら、なんか商店街のオーナーたちが高齢化して、店舗を貸し出すより、いまのままで十分収入があるから発展しないんだというようなことを教えてくれた。

あー、今回の旅は、ブームの宮沢くんご贔屓の台湾精進料理屋さんも味わえたし、桜坂劇場で映画も観れたし。那覇の新しい展開も感じられたし。
当初の予定のように座間味には行けなかったけど、沖縄はいつだって僕を目覚めさせてくれる。

この島の光と闇を感じつつ、

いまおもえば辺野古へも行きたかった。





ていうかいますぐにも辺野古へ飛びたい。くそ!




2015年2月14日土曜日

「花燃ゆ」と人権思想のこと

ほんのささいなプレゼンツに

ひとの心が動く
ただそれだけのことが
そのことが「人権」というものの根っこにある根拠

生きている人のすべての人の権利の根拠だ

それだけで人は変われる。

万物皆我に備わる
身を反みて誠あらば
楽しみこれより
大なるはなし

孟子の言葉に
僕は聞く
たとえばスピノザ

人間精神は
神の永遠・無限なる本質の
妥当な認識を有する。

ゆえに理性的でありかつ自由であると。

同じこと。

基本的人権
国民主権
また平和主義

2015年2月9日月曜日

沖縄のこと その3



まぶしい日差しの昼間。

2014年、沖縄訪問最終日だ。
親友の家族と空港で別れたあと、飛行機の時間まで那覇の街を歩いた。

三越が撤退し、ドン・キホーテが進出した国際通り。
喧騒はあいカワラずだ。
狭い車道を自動車が押し合い、外人、ナイチャーみんなしてヘロヘロ歩くまるで竹下通り。英語に中国語、ギャル言葉にヤンキー言葉にクラクションだ。

ボクはまっ先に栄町へ向かった。
今回の旅ですでに二度、夜の栄町を訪れていた。
一回は一人だった初日。二回目は親友の家族と沖縄料理の老舗「うりずん」へ。どちらのときも栄町の夜の奥へと探検したが、そこは煌々とした店々の明かりにドキドキするような活気ある沖縄タウンだった。

そして三たびめは、その昼の顔を訪ねてみたかったのだ。
3年前か5年前か「こぺんぎん食堂」ができたころ初めてその界隈を歩いたときはまだ栄町はすたれていたように思う。観光地化した牧志の公設市場とはちがい、地元の生活者のためだけの市場。そんな雰囲気はそのころからあったけど、別段栄えているようにも思えなかった。

しかし今回訪れた昼間の栄町は、夜ともまたちがった庶民の「市場(マチグヮー)」としてたしかに生き生きと復活していた。

これは僕の撮った栄町2014の映像


復活の詳細ついてはこんな映画もあるぜ


ひとつの商店街が復興するにはたくさんの微分上の要因がある。この那覇の市場の事例が全国的に敷衍できるとも思えないし、第一ヒトの気質が違う。
しかし結局はどの商店街にも云えることは、(きっと)そこにある「オリジナリティなるもの」を信じて疑わずにどこまで押し出せるかどうか。そしてその魅力を保証するように集まってくる若者たちの存在に応えられるかどうか。
若い世代がいない空間に未来はないのだろう。

そこに本当に、
「オリジナルなもの」があるのかないのかはどっちだっていいのだ。残るのは信念と、沖縄言葉でいう肝心(ちむぐくる)さ。

最後に昼の栄町の象徴のようなコーヒー店「ポトホト」での一杯を、





さあ、パレードが動きだす。
これはお祭りなのかもしれない・



2015年2月5日木曜日

沖縄のこと その2



震災の前年以来だから4年ぶりだった。
昨年(2014年)、仙台にくらす親友の家族といっしょに、ひさしぶりボクは沖縄本島をめぐった。

ところがずいぶん変わったなという印象だった。
沿道に並ぶコンビニもショッピングモールも牛丼ファーストフードも本土のどこかの地方都市と変わらない光景で、あの10年前はじめて上陸し心踊った記憶からは「なんだかすっかり日本化されちゃったなあ」という印象だった。まあ、「日本」なのだから当たり前なのだけれど。

だけれど、衝撃的だったのはコザだ。
コザ。僕の感覚でいうと沖縄の大阪のような街。那覇が東京だとするとコザが大阪。
10年前、僕はこのコザを拠点にして沖縄本島をめぐった。そのころは活気のある街で、音楽の街、芸能の街、そして基地の街だった。夏のお祭りの季節とも重なっていて、夜遅くまで飲みに歌いにぎやかだった。
それが今回旅の夜に、親友の家族を誘ってひさしぶりのコザの街を歩いたが、賑やかだった記憶の商店街を覗くと向こうの端までガッチリ閉まった暗い世界。完璧なるシャッター街。それもなんというか、パンデミックに人の絶えてしまった街のような、ちょっとぞっとする暗さなのだ。
かつてを知り、期待もあっただけに、あれは衝撃的だった。かつてを知らない親友の家族もちょっと特別な印象に残った様子。
世界経済がグローバル化したこの20数年のあいだに、本土の地方都市の駅前商店街に見られてきたのと同じ光景だ。救いの手がないのだ。そこまで日本化なのだった。

これまで政府が沖縄へばら撒いた多額の助成金などまったくこの街には届いていないかのようだった。

2015年2月4日水曜日

i am Kenji / i am not Kenji

まいにち
このまいにちを会ってきたようで
身ぢかなひとが冷たくなってしまったときのよう

(ああトーキョーの電車の音がする・・)

穴ボコ 小さいんだけどね どうやら深くて 暗くて
その向こうから 黒づくめのあいつらがまだ覗いているようなんだ・・

笑えないような 冷たい雨のような
晴れ間の雨のような 釣り堀をさまよう小鳥のような

(キミはキミでそこで飢えをさがしているんだな)

しずかな怒りが体のなかへ
悲しみは霧となって

空へ

のぼり 沈み
目の前の日常の目の前のボクはカテーンを引く

[2015年2月2日 月齢十三夜]

利益が資本と労働のいっぽうに偏らないように
ナイフが血を求めないように

2015年1月25日日曜日

沖縄のこと その1




 半分は日本なんだけど、もう半分は日本じゃない!

 という、危ういけれど、コトの真実を見られるポジションに、ボクはほのかなあこがれを抱いてきたし、今もシンパシーをもって生きている。沖縄しかりアイヌしかりイヌイットしかりケルトしかり、で、また(ときに)演劇者もしかりだとも感じている。

 1972年「沖縄返還」のとき、沖縄では未来のことを思う人びとのあいだで「復帰」か「独立」か、はげしい議論が沸き起こった。それは、うちらウチナンチューは本来「沖縄」であって「日本」でも「アメリカ」でも「中国」でもないという感覚があり、「復帰」という言葉に実質感がなかったし、ましてや「返還」となどという言葉はどこからくるか! もともと沖縄は誰のものなのか!

 戦争は、ある日、海の向こうからやってきた。
 ヤマト(日本)のほうからは日本の軍人たちがやってきて、反対のほうからはアメリカの軍人たちがやってきて、互いに土足で島を蹂躙していった末、沖縄の人びとは15万人も死んだ。島じゅうが鉄の雨に打たれて焼けた(激しい破壊ののちに沖縄本島を占領したアメリカ軍は、捕虜となった日本軍人と沖縄住人とを別々のエリアに囲ってきっぱり分けた。それは統治上、別々の民族と認識したからだった)。

 ボクらは認めよう。いま沖縄はボクらと同じ国民で、同じ運命をともにしつつも、ボクらとはすべて同じではない少数派の人々であることを。ボクら日本の勝手な戦争で15万人の人びとが「見殺し」にされたことを。それからいまも米軍基地の70%以上を「理不尽に」押し付けてることを。いさぎよく認めよう。そしてその「倫理的な負債」をどうすれば返済できるかかんがえなければならない。

 そうでなければ、いつか近い将来に、沖縄が(ふたたび)日本本土からの独立を求める声があがるのも夢想ではないように思う。昨年のスコットランドのように。

 そういう声が起こっても不思議ではないし、起こるべきだとも、ボクは思っている。

2015年1月17日土曜日

沖縄のこと その0



 今から10年前。BEGINの「島人ぬ宝」の年だから2003年か。はじめて沖縄の地へ降り立ったとき、ここは半分、日本ではないなと肌で感じた。街のそこここに日本とはちがう、日本にはない異質な何かがいろんな意味で漂っていた。熱帯アジア特有の気候と雰囲気、琉球王国時代の文化や芸能や気質、それからアメリカの占領と基地の存在がもたらしている風俗や制度だ。時間と空間、過去と現在、ざまざまな次元で日本という閉鎖空間からは見えなかったものたちが、まぶしい日差しの向こうからボクを眺めていた。

 でも当時、そこはたしかに地政的には日本なのであって、パスポートはもちろん必要なかったし、土地の人もなぜかみんな日本語を話してるし、テレビをつければよく知っている「内地の」番組が映っていた。(内地! そう内地。本土。いまでも沖縄の人らは「県外の日本」のことをそう言う。自分らはウチナー、ほかの日本人はナイチャー。これは戦前まで沖縄がじっしつ日本の植民地だったことをしめす暗い歴史のこだまだろう)。

 半分は日本なんだけど、もう半分は日本じゃない!

 あの感覚はなんだったのか。あれにボクは興奮したのだ。あれがボクの今もやまない沖縄へのあこがれの原点となったのだ。10年前のあの日々、ボクは、まるで「世界」と「日本」とを結びつけるミッシングリングを発見したように興奮したのだった。