オウムの事件について僕が思うことは、あの1995年3月20日の事件から数週間のあいだに日本人の心理と社会に起こった地殻変動のこと。あれ以来、日本人の思考は一部停止状態にさせられていること。
そのことのほうがオウムが企んだ呪いではなかったかということだ。
当時、僕はやや暇な身分だったので日中からテレビに釘付けだったけど、あのときブラウン管の向こうで起こったドラスティックな変化には唖然としたものだった。
事件直後からオウムへの疑惑は起こった。しかし当時のテレビ局を含めマスコミというのはいまよりずっとリベラルだったし、反政府組織への理解と存在意義をちゃんと認めていた。
否、マスコミの意義そのものが政府を批判するべきものだという自覚があったのだ。
テレビは、あの日々、事件から数日のあいだ、オウムからは上祐氏を迎え、オウムを批判する論客はもちろん擁護する論客もいっせいに出演させて、偏ることのない議論を昼も夜も放送していた。
しかし警察が上九一色村のオウムのアジトへ突入し、やがてその犯行が明らかになるに従って、ある日テレビも人々もいっせいにひとつの潮流へどっと流されていったのだ!
一気にだれもが「オウムはとんてもない悪だ」「絶対的に滅ぼすべきである」となった。まるで、人類の歴史が結核菌や天然痘ウィルスを撲滅してきたように。
あの、ひそかに遂行された、たしかなドラスティックな変化。
あれほど根源的に戦後の日本人の心理と社会を変えてしまった出来事はなかったのではないか。
人々のこころがザザッと変化してしまったとき、僕は呆然とした。
あの日以来、日本の人びとは、この世に「絶対的な悪がある」と思うようになった。
それから9.11があり、ISの出現があり、いまも僕らの思考は停止したままだ。
「いかなる者らであろうとも、人間のやることに絶対的な悪などないのだ」
と、大声で云えるような、リベラルな空間はほんの限られたものになってしまっている。
オウム事件はいまだに解明されていない、と云うが、
だれに解明できるだろう、それが愚かでありながらも、それなりの思慮も判断力も欲望も備えたたしかに人間たちの営みであったことを否定し、菌やウィルスと同等の存在理由しか与えない社会に。
もっとも日本は、近隣諸国を苦しめ虐殺するようなあんな戦争をなぜ起こしてしまったのか、それさえ解明しないままあいまいのままやってきたのだから。
すべてはあいまいのままでいくのだろう。
(というよりも、当時、戦争を犯した罪と責任をいまだ清算しきれていなかった戦後日本人の懊悩が、「絶対悪」の出現によって一気に解消されたようなごまかしが起こったのかもしれない。あのころはたびたび起こった戦争責任論の無限ループ論議が、あれよりいまはなくなったように思う)
あの日「オウムを絶対悪だ」と決めた日から、日本人の思考は停止していると思う。
あれがいかに残酷な犯罪だったとしても、人間の行う営みに「絶対的な悪」などというカテゴリーはないのに。
なぜオウムが生まれなければならなかったのか。
なぜ多くの優秀な理系の若者がオカルティックな宗教団体に惹かれていったのか。
あのとき、あのような集団が生まれるべき理由がたしかにどこかにあったのだ。
そういう角度で語られる言葉は現在の日本には少ない。
あの日々、あえてテレビに出演していた中沢新一さんがよく言っていたことは「盥の水といっしょに赤子まで流してはいけない」という警句だった。
そこには赤子がいたんだ。と僕は思う。
赤子とともに多くの闇が潰されたんだと思う。
それ以後の、神戸の事件も佐世保の事件も秋葉原も名古屋の女子大生も、オウム以後の閉塞感と関わっているように思うし、
当時あった日本社会の歪み(それはいまもあると思う)、それが分からないかぎり、「絶対悪」で済まされてしまうかぎり、そこで日本人の思考は絶望的に停止したままだろうと思う。