2023年5月22日月曜日

死者たちの夏へ

 今回の公演の首謀者である西成彦さんは、ポーランド文学や比較文学の先生で、『外地巡礼 』という本で読売文学賞もとっていらっしゃいます。

なのに僕は去年の暮れ、はじめて西さんとそれからいっしょに研究されているそれぞれスペシャルな先生方に出会ったとき、でも、なぜジェノサイドなのだろうとじつは思っていました。
そんな途方に暮れる僕の最初の導き手は当時まだほんとうに生きていらした大江さんでした。大江さんの「人生の親戚」の一節でした。
「学生の頃から読んできて、自分でも教えるのにも使っている、アメリカの女流作家が、広島の原爆以降、世界で起こることはすべてそれと関係があるといっています。私もそう思っています。私の子供が生まれる際に事故があったのも、広島以後の世界の出来事だからこそ、と考えています。自分のことでオオゲサですけど」
さらにその後、西さんの著書を読み、中村隆之さんや久野量一さん、近藤宏さん、福島亮さんの本やテキストを読みながら、自分はなんて世界の弱い側の人々の物語を知らなかったんだろうと思い、ああそうか、ジェノサイドとはあまねくすべての人間みなにつながっている事象なのだということをいま痛感しています。
けっして癒えない傷、忘れることのできない記憶、苦しみと非望と、喪失と悪夢の連続のなかで、言葉が、言葉と音楽だけがしずかに未来を指し示しています。
どうか、劇場へ足をお運びください。
ここに言葉があります。音楽があります。いつも常に立ち戻らなければならない人の生の営みの原点がここにあるのです。
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2021年1月12日火曜日

フィクションとノンフィクション のはざまの「リアル」

 東京国立近代美術館フィルムセンター

「特集・逝ける映画人を偲んで1998-2001」にて。
相米慎二監督「ションベン・ライダー」を(久し振りに)見て

*   *   *

 ボクは歌いたい。むしょうに歌いたい気分なのだ。誰に向かって? それがわからないのが、やや不安なのだが、それでも歌いたいのだ。

 ボクの叔父は、カメラと登山をこよなく愛した男で、今でこそ交通事故に会って、半身不髄、さらに頭をやられて、「ただ生きているために生きている」ような生命機械と化してしまい、車椅子での生活を余儀無くされ、ボクがボクであることすら、自分が何者であることすらわからなくなっているのだが、ボクや弟がまだ幼い頃は、冬になるとスキーへと連れていってくれ、その度に8ミリで滑って転ぶ様をフィルムに残してくれたりしたのだった。まだホームビデオなどありもしない時代で、よほどの好事家でない限り、8ミリフィルムで動画を映すことなどなかなかなかったように思う。正月などに親戚中で集まると、白いシーツを吊って部屋を暗くし、そこにスキーやらピクニックやらの絵を映写してみんなで楽しんだものだった。ときどき逆回転させたりして。トイレに立つ人の背中にまた絵が映ったりして。「ああん、見えないじゃないか!」「アッハッハ!」――ボクにとって、あれがはじまりの映画、映画の記憶のはじまりだったのかもしれないと思う。 

 久し振りに「ションベン・ライダー」を、映写機の大画面で見て、なんだか80年代に戻ったような既視感の中で、ボクは京橋から銀座まで歩いていた。空は白く曇って、風はなく、土曜日のオフィス街は人もまばらで、どうもいまが2003年だなんて信じられないような気分になってしまった……。

 ボクの目は切れ目なく雲を追いかけ、ビルからビルへと飛びすさり、人々を映し出す。現実にはいかなるカット割もない。
 相米監督のあの、長回し、ワンシーンワンカットという手法は、つまり、人生の記録としての映像美なのだと、つくづく思う。そして、その美がやはり、ボクをこよなく魅了するのだ。そのとき、そこで、カメラの向こうで、そういう事件があったのだ、という事実。それだけで、美しいのだ。

*   *   *

 幕が開くと、木之元亮のヤクザが誘拐のための準備体操をしている。隣にいた子分の桑名将大が横断歩道を渡っていって(カメラも動いて)、デブガキ大将に話し掛ける。ガキ大将の前には、学校のプールがあって、これもガキのまんまの河合美智子と永瀬正敏と坂上忍が泳いでいて、いじめられている。河合美智子が叫ぶ「ボクは女じゃない!」すると、先生役の原日出子のヒステリックな声が入ってきて、校庭には盆踊りの準備、その周りをワルガキたちのバイクがぐるぐる回って、どうやら一学期最後の日らしい。明日から夏休みなのだ。服を着た、河合美智子と永瀬正敏と坂上忍の三人が走ってきて、デブ大将に仕返しをしようとするのだが、目の前で、デブ大将は誘拐され、呆然と見送る三人の横の学校の塀には、らくがきで「ションベンライダー」――。

 ここまでがオープニングいきなり15分間のワンショット、おそらく伝説といっていいような回りっぱなしカメラなのだ。
 初めて見た中学生のとき、ワンショットだったなんて気づかずに、でも無意識に「ゲゲ、これはなんだかすごいぞ」と引き込まれたのを覚えている。

 その後も、どのシーンも、強引なほどカメラは回りっぱなしだ――。
 コンクリの川べりでキャッチボールしながら、河合美智子と永瀬正敏と坂上忍の三人がデブ大将を追いかけて横浜まで行くことを決意するシーン。
 ヤクザと警官たちが乱闘する横浜の路地で、三人が田中巡査(伊部雅刀)に出会うシーン。
 薄暗いだるま船の中で、落ちぶれヤクザの藤竜也に挑むシーン。
 水辺に浮かぶ材木置き場での乱闘シーン。
 打ち上げ花火を背景に、シャブでラリって荒れ狂う藤竜也と、三人の切ないパーティーのシーン。
 生理になった悲しさに、河合美智子が、海に潜って首まで漬かるシーン。
 「バンザーイ、バンザーイ」とマッチの唄を歌いながら、踊り狂うラストシーン。

*   *   *

 どうも、制作サイドは大変苦労したらしく、「ロングのワンショットが多すぎて切る事が出来ない。最後は仕方なくばっさり切って辻褄のあわないところは無声映画よろしく字幕を挿入して仕上げた」ということらしい。

 しかし、重要なのは、物語ではなかったのだ、ということに気づく。
 マトモな劇映画として見たら、「ションベンライダー」はまちがいなく破綻している。いいかげんの極致である。一つの物語とかテーマとかに向かって、カット割りや編集が、すき間なく構成され、配置されたというような気配はまったくない。一つの長いショットとショットがほとんど脈絡もなく接続され、イメージが延長されてゆくのだ。
 しかし、物語など、なにほどのことでもない、ということにあらためて気づく。
 ただ、そのとき、その場所で、河合美智子や、永瀬正敏や、坂上忍や、あるいは、藤竜也や原日出子らが、騒いで、はしゃいで、傷ついて、呆然としていたとう事実だけが、忘れがたく心に残るのだ。
 そこに、カット割りや編集による、「操作」がありえないという保証によって、事実が「リアル」に迫ってくるのだ。
 ただただ、そういう過去があったという事実が、せつないのだ。

 長回しを成立させるためには、大変な準備を必要としたのだと思う。
 ロケーション、小道具、エキストラ、天候、きっかけ、タイミング、段取りの打合せに、リハーサル、無線でやり取りをし、助監督は走り回って、起こりうる事故を計算し、準備し、そうして、後はカメラが何を見るかに任せたのだと思う。フィクションを、極限までノンフィクション化していくためのあらゆる努力が払われたのだと思う。
 そうして、そこにあるのは、カメラの向こうで起こっていることだけが「リアル」なドラマなのだ、という信念なのである。

 今ではたいてい編集やカット割りという技術的な操作によって、事件はするりと「物語」に変換させられている。それがあたりまえだ。テレビドラマや映画だけの話ではない、ドキュメント番組やニュース映像ですらそうなのだ。
 物語は技術的につくられるのだ。「リアル」は、わかりやすく、知的に編集され処理されて「物語」として仕立てられる。それが現代のボクらを取り巻く映像のほとんどだ。
 なぜなら、生の「リアル」は受け入れがたいほどに、訳のわからないものだから。そんな訳のわからないものは商品にならないからだ。

 しかし、80年代には、まだ、相米監督たちがいて、あのように(無謀にも)敢えて、「リアル」を追求する力があったのだと思う。

 だから、本当に、僕は歌が歌いたいと思った。

 始まりがあって、目的があって、終わりがある。結末がある。
 これは理屈だ。だが、これが「物語」なのだ。
 しかし、ボクらの人生は、人生の「リアル」は、決してそんなふうには仕立てられてはいない。始まりもなければ終わりもなく、目的すらさだかではない。徹頭徹尾に不透明なのだ。
 そんなあいまさに、「物語」はわかりやすい幻想を与えてくれるのだが、それは幻想にすぎないのであって、「リアル」の方は、フィクションとノンフィクションのはざまで、相変わらず、徹頭徹尾に不透明なまま、ボクらを脅かしているのである。

*   *   *

 ひとつの歌なのだ。
 ひとつのシーンを撮るという事件が、ひとつの詩だったのだ。
 詩から詩への連鎖が、ひとつの映像詩集として、「ションベンライダー」としてまとめられていたのだ。
 そう思ってみるととき、この作品はおそらく、やはり、日本映画史に残る名作として、何百年後も残っていくくらいのもんだろうと、ボクは哀しくも思うのである。

 

2003.05.17
JIN

2020年6月30日火曜日

安心と、安全と――いまのボクらのコロナとの付き合いってこういう感じかと思う。

安心と、安全と。

いまのボクらのコロナとの付き合いってこういう感じかと思う。

原発のいわゆる「安全神話」。あれは安全などなにも保障していなかった、あれが担保したのは人々の安心(感)だった。

コロナ下の満員電車、誰も本当に安全かどうか知らない。しかし、日々の繰り返しの経験則は不安を薄めてゆき、限りなく安心へと心を導く。

オーストラリアでは外で誰もマスクをしていない。日本人の現地レポーターでさえ「はじめは不安で自分だけマスクをしてたんですけど、むしろマスクは不審がられるのでいまではしていません」と言っていた。マスクをするというのは文化なのだ。そして文化が人々に安心感を与えるのだ。

安心の反対は不安。未知の対象を前にして、われわれは不安になる。確かな情報がないからだ。それが真実何かを知らないからだ。では、どうすれば不安がなくなるかというと、その対象について正しい知識が必要かというとそうではなく、ただ、何も知らないという状況さえ解消されればよいのである。

たとえば、物体Xに遭遇した村人たち。未知のモノに、村人みな不安の嵐に陥るが、ある日誰かが、「あれは鎮守様の御使いじゃ」とか言う。確かによく見ると、鎮守様の印のようなものが刻まれている。「鎮守様の御使いじゃ」「御使いじゃ」不安というのはこれで解消されるのである。
ところが、しばらくすると、「御使いにしてはなんもいいことが起こらんなあ」という話になる。むしろ村はあい変わらず疲弊したままだ。「あんなもんは御使いでもなんでもねえ、隣国のタタリだべ」とかなる。たしかに隣国のような匂いがする。「そうだそうだタタリだタタリだ」これでも不安は解消されている。

いまのボクらのコロナとの付き合いってこういう感じかと思う。

人々が安全を得るための条件と、
人々が安心を得るための条件は違う。

安全を得るためには、科学的なエビデンスが要る。物質的な条件だ。
安心を得るためには、心理的・社会的な条件があればいいのだ。

では科学的なエビデンスが絶対かというと、どうだろうか。

こんな状況を考えてみよう。
いまにも落ちそうな揺れている吊橋があってキミはそこを渡らなければならない。
パタン1)
吊橋の強度、科学的な分析から、キミ一人が渡ることは問題ないことが立証されている。しかし、見るからに、目の前の吊橋は風に揺れ、いまにも切れて壊れそうなのだ。周りのみんなも不安そうに見つめている。
パタン2)
科学的な分析は出ていない。吊橋は風に揺れているが、もうずっと昔からこうだったと村の長老が言っている。みんなもキミのための安穏無事を祈願して「さあもう大丈夫だ」と輝いた目でキミを見守っている。キミに期待している。

どちらを選んでも同じなのだ。
それは、その時、選択を迫られたキミには、どちらを信じるかというだけのことだから。
科学者の言葉を信じるか、村のみんなの言葉を信じるか、という信仰の選択の問題だから。
信仰が安心を与えるのだ(安全ではなく)。

いまのボクらのコロナとの付き合いってこういう感じかと思う。

だから、ひるがえって考えてみよう。
安心など、ただの幻想に過ぎないんじゃないかというとそうではないんだと。
未知の物体Xを、それが何かわからないながら「あれは鎮守様の御使いじゃ」と言って安心することは人間の生きる能力なんじゃないかと。
安心するからわたくしたちは動けるし働けるのだ。危険に飛び込めるのだ。
たとえそれが認識の誤謬であっても。
このようにして、このコロナ禍で、多くの人がそのギリギリにその危険に飛び込んだのではなかったか。
でなければ、自粛のなか食べ物を得られずに死ぬ人はもっと出たろうし、経営破綻した自営業者や中小企業ももっと出ていたのではないだろうか。

人は何を信じるかなのだ。そして、なにも信じられないときは不安の中で足を踏み出せない。

人の心理は、物質的なエビデンス=科学的な論証だけでは動かせないのだ。

ここに人の恐るべきパラドックスがある。
人は安全だというだけでは動けない。動くためには安心が必要なのだが、安心にはエビデンスだけでは決して足りないし、時にはエビデンスは要らないというのだ。

2019年8月14日水曜日

如月さんの記憶。

如月さんの記憶。

その1)
ボクが如月小春と出会ったのは、テレビの中だった。1980年代半ばボクはいつかトーキョーでの生活を漠然と夢見てた地方都市の高校生で、如月さんはNHKの教育テレビの「週刊ブックレヴュー」という書評番組のレギュラーで、一体この人は誰?と思ったのだ。ただの美人ではないぞ。どうも演劇なるものをやってるらしいぞ、と。それでその当時、地方には演劇なるものは皆無であって、ボクの中で一気にトーキョー=演劇という(実情からいうとかなり混迷した)図式ができあがったのだった。

その2)
どうもトーキョーでは演劇というものが流行っているらしい。夢を膨らましたボクは地方都市いちばんの本屋に出かけたものの、店内には戯曲コーナーも如月小春も野田秀樹も鴻上尚史もなく、とにかく注文して如月さんの戯曲を2冊取り寄せた。なぜ、そのとき野田でも鴻上でもなく如月小春にこだわったかというと当時のニューアカブームに影響されてだったかもしれない。中沢新一はすでにボクのご当地ヒーローだったし、YMOや浅田彰とともに如月さんがそういうグループの人だという認識だったから。しかし届いた「家、世の果ての」も「工場物語」もいざ読んでみたがまったく意味がわからないのだった。

その3)
そんなある日、地方都市の高校演劇部合同発表会のような、地区大会のような、の審査員に如月さんが来るという噂でボクはいそいそと出かけて行った。初ナマの如月小春だった。彼女は、演劇のえの字の知らないボクから見てもどうにも愚にもつかないような発表(特にウチの高校!)にすら笑顔であたたかいコメントを送り、颯爽と現場を立ち去り、トーキョーへと帰って行ったのだった。じつは、ミーハーだったボクはこのとき色紙にサインをもらっていて、そこには今1985年8月2日とある。まだNOISEに入るずっと以前のことだ。

その4)
それからボクはトーキョーへの憧れとともに如月小春=NOISEの舞台を観にたびたび上京した。いちばん最初はベニサンピットの「ISLAND」だった。これはボクがはじめて自分から演劇なるものを意識して観た芝居だった。Bon Voyageの歌は今でも歌える。アンケートに「都会の生活ってこんなに苦しいんですか?」って書いたことも覚えている。それから「SAMSA」「DAILY」と観た。「DAILY」は池袋西武のスタジオ200で幕前に如月さんがタンバリンを持って登場した。それから毎月のように芝居を観にトーキョーへ通った。「遊眠社」も見た「第三舞台」も見た「SCOT」も見た。

その5)
しかし大学に入っていざ自分が夢のトーキョーに上陸してみると、浮かれに浮かれ如月小春どころでなく、自分自身がもう芝居ができるという事態に天下夢中になった。夢のような、めんめんとした日々だった。
上京したその年のNOISE公演は「砂漠」だったが、入ったサークル劇団の合宿と重なり、公演場所はT2スタジオで、合宿から帰ってきた夕方にはまだ楽日のソアレはあったのだが、バスから降りた新宿からはとても間に合わない時間だった。次の年は「NIPPON CHA! CHA! CHA! 」だった。僕はすでに劇団で演出を始めていた。予約をすればよかったのだが、マチネに遊眠社の「半神」を見たあと、中村優子を誘って世田谷美術館へ向かった。雨がしとしと降っていた。当日券で並んで待ったが、最後の最後で「見れません」と(あれはたぶん楫屋さんに)言われたのだった。その次の年の「MOON」はもう見なかった。。。

その6)
とはいえ、「仁は如月小春とNOISEが好きらしいぞー」という昔のウワサは、木霊となって跳ね返ってきた。大学生活も4年生の春、NOISEで若い男優を探してるよーという話が必然のように就職活動もなーんもしていないボク宛に入ってきたのだった。

その7)
とにかく一人ではなく複数人欲しいという話で、ボクは、ボクとしてそのとき身近で俳優として頼もしいと感じていた甲斐智堯に「NOISEで芝居しないかい?」なんて言って誘ってNOISEの稽古へ出かけたのだった。下北沢アレイだった。なーんだか、小さくてよく動く奴と、大きくてよく喋る奴の、絵に描いたような凸凹コンビが来たなというのが後に聴いた瀧川真澄さんの感想。稽古の後、当時アレイビルの2階のカフェラミルで楫屋さんと面談。ボクはNOISEファンだったことを伏せて、演出志望だとかいう話をし、まあ二人とも学生だし、多額の出演料を要求するでもなしで、楫屋さんとしてはまあいいかという感じだったと思う。まあいいか。

その8)
その時の、そのアレイでの稽古は「escape」へ向けてのプレ稽古だったと思う。NOISEではいつもやっていただろう基礎的な稽古が淡々と続いた。ストップモーション。スローモーション。アンサンブル。空間構成。などなど。何が正解なのかドキマギしながらなんとかボクらもついていく。その時だった、なんのシークエンスだったろう、何かを表現しながら単独で上から下へ通り抜けるというエチュードで、ボクはつい昨日まで大学で一緒の芝居をしていた先輩のオリジナルギャグを思い切って採用させていただいた。そして如月さんはそれを一気に全面否定した。ああ、ここではこういうおちゃらけはダメなんだというのが出発点だった。そのことはよく覚えている。

真澄さんの「2020如月小春プロジェクト」へのコメントに触発されて思ったのは、〈単独/普遍〉という軸と〈個別/一般〉という軸の差異で、この違いを見極めることがボクらは最近少なくなったのではないか、ということ! いま世界はますます〈個別/一般〉という軸で物事が処理されているように思う。そこでは物事は数量化され計測される。では〈単独/普遍〉とはなんなのか。まず肉体が空間のなかに在るということだ。そこでは質が問われ、事物=肉体は普遍化=絶対化されはしても、簡単に一般化=平準化されはしないのだ。

2017年11月16日木曜日

ベルギー戦を観て。

まず、今回の遠征のいちばん驚いた収穫は、酒井宏樹の守備だ。ネイマールもメルテンスもほぼ徹底的に抑えていた。スピードのあるドリブラーに対する距離の寄せ方が抜群なのだ。なまじリーグアンのレキュラーを張っているのも伊達ではないのだ。だがしかし、気になる点もあって、ブラジル戦の3失点目のジエズスも、ベルギーの失点のシャドリのドリブルも、日本の右を抉られていて、宏樹はなんでペナルティエリア内まで戻ってなかったんだって、ゴール側からの映像で遠目で観ていた宏樹の姿が気になった。

で、この2試合で確実に経験値を積んだのは槙野のように思えた。デフェンスのなかで唯一の国内選手。吉田も宏樹も長友も普段の延長戦でやってたようだったが、槙野はグングンとなにかを吸収していたようだった。それもこれまでの槙野のなかで眠っていた海外経験が奥底から立ち上がってきたからであるように思う。

というのも、ひるがえって、ボランチの国内選手の山口と井手口はハッキリとした何かを得たようには思えなかったからだ。ヨーロッパリーグのトップ選手たちにどのように対処すればよいか、最後まで、有効な解決策はないまま、優れた身体能力のままにただ走り回っていたように思う。押し上げてくる過去の経験がなかったのだ。Jリーグとは異質なクオリティに戸惑ったままだったのだ。ふたりとも即刻海外へ行ったほうがいいけど、山口くんは行ってすぐに戻ってきた経緯があったっけ。井手口にはすぐにも海外へ行ってほしい。

んで、ウイングだけど、右は浅野より久保がいいな。浅野のいいところはスピードで、走るスピードもそうだが、考えるスピードも単細胞でよいのだが、だがドリブルもトラップもポストポレーもパスも下手くそなので見ててイライラする。ボールを失いすぎる。それに比べ久保はもっとクレバーだ。攻撃を組み立てることができる。しかし、意外に周囲に影響されるのか、試合による出来不出来が激しい。たぶん、本来はサイドの選手ではないせいだろうと思う。

左は守備を考えてハリルは原口を選んでるんだと思うけど、僕は乾のほうがいい。長友とのコンビネーションがいいし、ハッキリとした攻撃の形を作れるからだ。ブラジル戦でもベルギー戦でも長友&原口は攻撃の形が作れなかった。

結局、中央で奪ってサイドで組み立てるという、ハリルの戦術では、右も左も前と後ろの相性が重要なのだ。長友と原口のコンビネーションが良くないのが気になるのだ。

さて、攻撃的なミッドの話であるが、ハリルはもうこのシステムで行くんだろうし、そうだとすると、ベルギー戦の森岡もそうだったけど、香川にはもう活躍する場所はないなと思う。ハリルの求めるインサイドハーフは前半の長澤のように奪って繋げる選手で、ペナルティエリアに入っていく選手ではないのだ。トップ下はいらないのだ。
長澤は繋げるというだけで井手口よりも山口よりも長けていて、それでいて奪えるのが香川や森岡よりも長けていて、そして海外経験もあるという存在。ないのは代表経験だけだ。

フォワードは大迫でも杉本でも岡崎でも、誰でもいいと思う。3人とも好きだしね。

追記。ハリルのサッカーは強い相手に対する現実的なサッカーなんだけど、まあ面白いサッカーじゃないし、日本人にあったサッカーだとも思えない。集約すると、ゲームを組み立てるボランチのイメージの問題で、ガツガツ守備するだけでなく、やんわりとゲームを組み立てる遠藤や中村憲剛のような存在を無視しているところが気にいらないのだ。たとえば、今夜のベルギー戦で言えば、卓越したテクニックと冷静な戦術眼でたくみにボールを散らしていたベルギーのデ・ブライネなんかをハリルはどう見ていたんだろうか。

2016年5月21日土曜日

憲法のこと その3「内包と外延」

もちろん。そう。

日本国のコンセプト(概念)をハッキリしめすのが憲法だ。
そこに間違いはない。

ただ
その概念の、内包をしめすのと
外延を並べるのとではずいぶんちがう。

内包と外延。

たとえば、
芸術という概念を説明するとする。

概念の〈内包〉というのは、
芸術とはなにか、
芸術的なるものすべてに共通な本質とはなにか、それを定義したものだ。
たとえば「芸術とは人々を幸せにするものである」とか
たとえば「芸術とは人間の隠された真実を暴くものである」とか
たとえば「芸術とは究極の美である」とかとか。

対して、

概念の〈外延)というのは、
音楽とか絵画とか、小説とか詩とか、あるフレーズとか、ある色彩とか、
芸術的なるものの本質に合致するような
具体的な事物たちの集合のことだ。

そういうこと。

憲法は、たしかに日本国のコンセプト(概念)をハッキリしめさなければならない。
しかし、そのコンセプト(概念)の〈内包〉を示せれば十分なのだ。
日本国の本質を言葉で示れせばよいのだ。
(そしてそれは現憲法で十分に尽くされているとボクは思う)

なのに、
どんな文化や歴史があったとか、家族愛がどうとか、郷土愛とか、
そういう具体的な個別的な匂いのある〈外延的な〉ものをそこに入れこむ必要はじつにまったくないんだ。
(自民党の草案にはそんなような文化とか歴史とか愛とかなんとかいう言葉がいっぱい出てくる!)

そうなるともう、そもそも〈法〉ですらない。

2016年5月20日金曜日

憲法のこと その2「憲法は器なんだ」

憲法は器なんだ。

大きさとか形とか。
素材、性質、耐久性。そういうことだ。

でもそこにどんなものを
どんな文化や歴史や匂い
なにを盛るかは、それは憲法が決めることじゃない。

それはすごーっく
国民一人ひとりの好みや思想や民族やなんやかやと関わっているけど、

つまり。
日本人はひとつの民族でできてるとか
それは幻想です!

アイヌの人も違うし
沖縄の人も違う。

関西と関東でもずいぶん違う。

東北と九州では、
通じないことがわんさかありそうだし。

どんな文化や歴史や匂い
なにを盛るかはいろいろでいいんだよ。

日本の文化も歴史も一つじゃないのだから。

でもそれらをまとめて
普遍的に器たりえているのが、


いまの憲法なんだよね。

2016年5月17日火曜日

憲法のこと、その1「最初にあるのは自由」

改憲のはなしになると
とくに9条とか緊急事態宣言とかが注目されるけど、
自民党の「草案」はそればかりじゃない
たくさんのことを変えようとしている。

いまボクの前にある、
「憲法は誰のもの? ー自民党改憲案の検証ー」
(岩波ブックレット/2013年7月4日発行)
にはこうある。

ーー(自民党の)草案には、立憲主義をはじめとした現行憲法の基本を骨抜きにする多くの問題点が含まれています。それは以下の4点に集約することができます。

1)立憲主義の放棄
2)平和主義から戦争ができる国へ
3)天皇の元首化と国民主義の後退
4)人権の縮小と義務の拡大

憲法は、そこに守るべき価値を定めて国家権力に守らせ、それにより個人の尊重という憲法の究極の価値を実現するための装置です。これを立憲主義といいます。現行憲法は「守るべき価値」として人権尊重主義、平和主義、国民主権を書き留めています。ところが(自民党の)草案は、天皇を国の頂点に位置づけてその権威を利用する一方、人権を縮小して義務を拡大し、戦争を含めた国の権力行使を容易にすることを狙っています。

+++++

まあ、つまり、基本的人権も国家主権も平和主義も、
今の憲法の価値のすべてを弱体化しようというのが自民党の草案なのだけど、
むかしのこと。戦前の思想の影響をたっぷりと受けた、ボクの父親がよく言ってたこと…

ーー人間は義務を果たしてはじめて自由があるんだ!それではじめて好きなことをやっていいんだ!

こんなような考え方はいまでもこの国の暗い底辺にあるんじゃないかと思う。

けど、そんなこと、今の憲法はちっとも言ってないんだ。

最初にあるのは「自由」。

これが今のボクらの憲法に書かれていることだ。

「義務」はそのあとに、各人の自由を阻害しない、社会的な不利益を生み出さない範囲で生じてくるもの。

最初にあるのは「自由」。

それこそが長い時間をかけて、人間が国家とともに生きるために、ヨーロッパの哲学が見出してきた人類普遍の価値なのだから。

2015年11月24日火曜日

叫び論的演技論 その1

演技とは叫びであり
また叫びでなければならず
それはつまり魂の叫びのその形だ

それはカタストロフを肯定する
それはシニフィエを肯定する
それはこころのなかの言葉にならぬ
言葉にできぬ空明を肯定するのだ

こころの表層の裂け目を肯定し
こころの深層の破れ目を肯定し
見えないこころの叫びが現実態となることを肯定するのだ

どうして叫ばずにいられよう
このいまのテロの時代に
テロを起こす側も
テロに脅かされる側も
そしてテロを起こすように圧力をかける側も

劣等感も恐怖も不安も
喜びも切なさも死も
すべての表現は叫びであり
叫びは届けられなければないことを

宛名のない手紙のように
まれに不確かだとしても

そこへ

2015年7月13日月曜日

エティカルであるということ(あるいはハムレット)

倫理的なというと誤解されるから
エティカルなと言おうとボクは思う。

エティカルなというのは
「自分のほんたうの声にまっすぐな」というような意味だ。

そしてほんたうというのは
なにがいちばん良いことか
それを考えずにいられないということだ。

なかなか、ある組織ある集団のなかにいると
「自分のほんたう」を口にするのは難しいことだろう。

いやそう思って悔いてる人はまだしも
「自分のほんたうの声」が聞こえなくなっている
そんな人がかなり多い気もする。

だからエティカルであり続けることは
なかなか簡単なことでなく、
無闇に人のことは言えないのだけれど、

あの安倍晋三という男の言動を見ていると
あれはしんじつエティカルなものではないなあと思う。
あの男はすこしも「自分のほんたうの声にまっすぐに」行動してるようには
ボクには思えない。

あれはなんなんだろう?
あれはなにかにたましいを奪われた者のように見える。

あの自意識のうすいそらとぼけた嘘のつき方
なんとも屈折率の少ないまるでロウ人形のような
いけしゃあしゃあとした言葉のごまかし方やすり替え

ああいう言葉が「自分のほんたうの声」でないのはもちろん、
ああいう言葉を発するその底にある衝動や信念がそもそも
あの男の「自分のほんたうの声」なのかどうか
ボクにはわからなくなるのだ。

仮にあの男の信念が「日本を戦争ができる国にすること」だとしよう。
また別のなんでもよい、なにか歴史に対する
また民主主義に対するなんらかの反動的なものだとしよう。
(たぶんそうなのだが)

そうした信念ないし衝動があの男の根底にあるとして、
ボクにはそれがあの男の「自分のほんたうの声」ではないように感じるのだ。

これはなんなんだろう?

はたして
なによりエティカルでありたい、
自分のほんたうの声にまっすぐでいたいと、
なにがいちばん良いことかほんたうにほんたうに考えてかんがえた結論が、
日本を戦争ができる国にすることだと
歴史に対してまた民主主義に対して反動的な信念を持つことだと
ほんたうに?
ほんたうに、人はしんじつ言いうるのか?

そこでボクは愕然とする。

ほんたうにその結論なのか?
なにがいちばん良いことか
考えてかんがえ続けることをどこかで放棄していないか?

ボクは悲しくなる。

あの男は亡霊なのだ。
なにものかにたましいを奪われた亡霊なのだ。
あるいはなにかの亡霊によってあやつられている抜け殻にすぎないのだ。

あの男のエティカルな
「自分のほんたうの声」はたぶんその肉体のなかにまだ在るのだろうが
その力は微塵も残されてはいないかのようだ。

だがはたしてその亡霊とはなんなのか?
あの男(=またわれわれ)のエティックを制圧し、
あの男(=またわれわれ)の信念を操っている亡霊とは?

永久戦犯の祖父の怨念か?
極右組織の威力か?
経済界か? アメリカか?

ボクにはわからぬ。
わからぬだけにおそろしい気もするが

(敵はそいつ)

ハムレットならばたかが亡霊にすぎぬと云うだろうか。







2015年4月18日土曜日

たましいの問題

いまや国内のだれも政府に反対も批判もできないなか、沖縄だけが本気で対峙できるのは、利害関係が端的に敵対しているからだ。譲れないからだ。
いまの政府の構想つまり「美しい日本」だとか「強い日本」だとかいうくだらない幻想のなかに、沖縄はそもそも入っていないからだ。

これまでしいたげられてきた沖縄の人々はそのことをいま鋭く感じ取っている。政府の「日本」というカテゴリーの中に沖縄は入っていないのだ。「うちらはやっぱり日本じゃねえ」

だからお金よりも振興策よりも、「たましい」の問題を彼らは選択した。
辺野古は沖縄の人々にとってたましいの問題なのだ。

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ひるがえっていうと、反対も批判もできないのは、そのくだらない幻想のなかにいるからだ。

2015年3月23日月曜日

オウムの犯罪と日本人の思考停止状態について

オウムの事件について僕が思うことは、あの1995年3月20日の事件から数週間のあいだに日本人の心理と社会に起こった地殻変動のこと。あれ以来、日本人の思考は一部停止状態にさせられていること。

そのことのほうがオウムが企んだ呪いではなかったかということだ。

当時、僕はやや暇な身分だったので日中からテレビに釘付けだったけど、あのときブラウン管の向こうで起こったドラスティックな変化には唖然としたものだった。

事件直後からオウムへの疑惑は起こった。しかし当時のテレビ局を含めマスコミというのはいまよりずっとリベラルだったし、反政府組織への理解と存在意義をちゃんと認めていた。

否、マスコミの意義そのものが政府を批判するべきものだという自覚があったのだ。

テレビは、あの日々、事件から数日のあいだ、オウムからは上祐氏を迎え、オウムを批判する論客はもちろん擁護する論客もいっせいに出演させて、偏ることのない議論を昼も夜も放送していた。

しかし警察が上九一色村のオウムのアジトへ突入し、やがてその犯行が明らかになるに従って、ある日テレビも人々もいっせいにひとつの潮流へどっと流されていったのだ!

一気にだれもが「オウムはとんてもない悪だ」「絶対的に滅ぼすべきである」となった。まるで、人類の歴史が結核菌や天然痘ウィルスを撲滅してきたように。

あの、ひそかに遂行された、たしかなドラスティックな変化。
あれほど根源的に戦後の日本人の心理と社会を変えてしまった出来事はなかったのではないか。

人々のこころがザザッと変化してしまったとき、僕は呆然とした。

あの日以来、日本の人びとは、この世に「絶対的な悪がある」と思うようになった。

それから9.11があり、ISの出現があり、いまも僕らの思考は停止したままだ。

「いかなる者らであろうとも、人間のやることに絶対的な悪などないのだ」
と、大声で云えるような、リベラルな空間はほんの限られたものになってしまっている。

オウム事件はいまだに解明されていない、と云うが、
だれに解明できるだろう、それが愚かでありながらも、それなりの思慮も判断力も欲望も備えたたしかに人間たちの営みであったことを否定し、菌やウィルスと同等の存在理由しか与えない社会に。

もっとも日本は、近隣諸国を苦しめ虐殺するようなあんな戦争をなぜ起こしてしまったのか、それさえ解明しないままあいまいのままやってきたのだから。
すべてはあいまいのままでいくのだろう。

(というよりも、当時、戦争を犯した罪と責任をいまだ清算しきれていなかった戦後日本人の懊悩が、「絶対悪」の出現によって一気に解消されたようなごまかしが起こったのかもしれない。あのころはたびたび起こった戦争責任論の無限ループ論議が、あれよりいまはなくなったように思う)

あの日「オウムを絶対悪だ」と決めた日から、日本人の思考は停止していると思う。

あれがいかに残酷な犯罪だったとしても、人間の行う営みに「絶対的な悪」などというカテゴリーはないのに。

なぜオウムが生まれなければならなかったのか。
なぜ多くの優秀な理系の若者がオカルティックな宗教団体に惹かれていったのか。
あのとき、あのような集団が生まれるべき理由がたしかにどこかにあったのだ。

そういう角度で語られる言葉は現在の日本には少ない。

あの日々、あえてテレビに出演していた中沢新一さんがよく言っていたことは「盥の水といっしょに赤子まで流してはいけない」という警句だった。

そこには赤子がいたんだ。と僕は思う。
赤子とともに多くの闇が潰されたんだと思う。

それ以後の、神戸の事件も佐世保の事件も秋葉原も名古屋の女子大生も、オウム以後の閉塞感と関わっているように思うし、

当時あった日本社会の歪み(それはいまもあると思う)、それが分からないかぎり、「絶対悪」で済まされてしまうかぎり、そこで日本人の思考は絶望的に停止したままだろうと思う。

2015年3月18日水曜日

2011年3月19日の日記から

 2011年3月19日 快晴

 空は晴れ、世界にはまんべんなくあたたかい陽射し。たまさかの僥倖。
 本日東京の放射線量は0.047マイクロシーベルト毎時。平常よりはまだ多いが、国際原子力機関が「都内に健康上の危険はない」と発表したせいか、テレビもいつも通り平凡になったし、みんな街に出てにぎわうべきところはにぎわっているようだ。しかし被災地の状況はいまだ全体が見えず。いまも救援がないままに取り残されている人たちが海岸部に点在している。
 僕はまたひとり。ペダルを踏む力に汗ばんで、脱いだダウンジャケットを自転車のカゴに突っ込んだ。見上げると、四日前にはまだ固かった白木蓮の蕾がふくらみ始め、寒桜の葉もやわらかく空に伸びていた。
 図書館に寄り、もはや僕のなかで古びた本を返し、駅前のデパートでまたいつか会えるときのために彼女へのプレゼント(白木蓮色の下着だ)を購うと、まっすぐ南下して多摩川の川辺りに出た。
 おぼろげな、春めいた空気のなか、キャッチボールをする親子やサッカーチームの練習風景はいつも通りの河岸の景色だ。頭上に広がる大空は、くすんだ空色から柔らかな桃色へ、たしかにうつろう春の夕暮れの空だ。あと十数分もすれば陽は落ちるだろう。
 岸辺近くに大きな柳の木が一本。空に向かって新芽をライトグリーンに輝かせ、無数の椋鳥たちの棲家となっていた。なにを合図にしているのか、いっせいに黒豆のような椋鳥の影が何百と大気を揺さぶり飛び立つ風景に、こちらの心まで乱された。
 鉄橋の上を列車が走って行った。振り返ると、かすんだ西の空を、陽は今まさに沈み消えようとしていた。
 僕は目を凝らし、見つめる、自分の眼で。遠く多摩丘陵の稜線に欠けていく、光の真円を。それは地平の底へ向かってじわじわと小さくなっていく。現実には、太陽が沈んでいくのではないと科学は言う。動いているのは自転している地球のほうで、太陽が沈んでいくように見えるのは、地球上からの視点が被る「錯覚」にすぎないと。けれど「現実には」という、その「現実」とはどんな「現実」なのか。地球上からの視点もまた一つの視点ではないか、とも僕は思った。
 ——目に見えるものを信じるか、見えないものを信じるか?
 人類は、これまで徹底した実証主義によって科学的真理を積み上げてきた。だが一般人にとって、その真理が日常経験と異なる時あるいは目に見えない時、それが真である根拠は、「科学(あるいは教科書)がそう言ってるからそうなんだ」と「信じる」こと以外にない。地球が太陽のまわりを回っている風景を見ることはできないし、またインフルエンザのウィールスが体のなかで暴れている姿を見ることもできない。同じように、いまこの上空をどれだけの放射線が飛んでいるか、どれだけの放射線を体内に蓄積すると有害となるのか、それらが目に見えず、計測機器もなく、また経験もない以上、われわれはまず科学的真理≒情報を「信じる」よりほかないのだ。にもかかわらず、その情報をどのように「信じ」、そこからどのようなアクションを起こすかは、まったくもって個々人にかかっているのだ。
 いま西の空で、命尽きるように地平の底へ沈んでいった太陽は、僕の目には沈んでいったとしか見えなかった。
 沈んでしまうと空はさらに激しく燃え出した。それは、日没点を中心に黄色から濃いオレンジ色へグラデーションするラジエーターだった。自然界の放射性物質だった。そして、主観的にその「印象」を言えば、それは、没する者の悲痛の叫び、爆発的なメッセージ、まるで革命家の血のように、詩人の涙のように、辿り着かない永遠に向けて最期の光を放っているようだった。
 その外側からははやくも藍色の闇が滲み寄ってきて、夜の藍と日の名残りのオレンジとが重なり合う中間領域は、不思議な飴色に輝いていた。
 僕は自転車を降り、流れる川の水際まで、枯れ草色の葦の茂みをかきわけていった。水際は小さな崖のようになっていたが、釣り人がつくった窪みまで降りると、そこは足元まで水に触れられるほどの低さだった。そして波打つ水面には、あの上空での色彩のせめぎ合いがそのまま、まるで鏡の向こうの世界のように反映し揺らめいて、立ち尽くす僕の濡れた足元にまでしたたかに届いているのだった。
 そのとき、葦の茂みの向こうの闇から声がした。姿の見えぬその声は、ひそひそと軽やかで、よく聞くと、一人の女子学生が熱心に友人に学校での恋を相談しているのだった。
 でねえ……そうなんだけど……だってえ……でしょ……でも……ああどうしよ……
 ああ、陽はまた昇るんだ、と僕は思った。
 この世界にはまだ、見えないものへの恐怖より、見えないものへのときめきがある。あの断末魔のようなオレンジ色の死は、再びまぶしい産声となってかならず東の空に帰ってくる。それは願いでも希望でもなく、生の事実なんだと。

 ハンドルを握って堤防の上まで一気に駆け上がる。空はますます墨を流したように暮れていったが、そのまだらのなかをまだ多くの市民が当たり前のようにランニングしたり散歩したりしていたのだった。

2011年3月18日の日記から

 2011年3月18日 快晴

 午後2時46分。黙祷。目を閉じると、あのめまいのような揺れが体のなかで続いてるのを感じる。ちょうど一週間分の記憶。

2015年3月11日水曜日

2011年3月15日の日記から

2011年3月15日 曇りのち雨

 涙が流れてきそうな冷たい空だった。
 彼女はもうフランスへ帰ってしまったし、僕は朝からひとり毛布にくるまって、空からいま通常の30倍を超える値の放射性物質が舞い降りてきているというニュースを聞いていた。「ただちに人体に影響を与える濃度ではない」という。だが世界はもう目に見えないところで決定的に壊れはじめているのではないか。見えないものの恐ろしさにおびえ、僕は強い孤立感を感じていた。
 それでも、それは今日東京でまだ生きている僕らへ、被災地から届いた物理的「現実」なのだ。ここで逃げたらこの先もずっと逃げることになるだろう。
 ボクはテレビを消してネットを切ると、厚手の靴下にトレッキングシューズ、毛糸帽を目深にかぶってマスクをして部屋を飛び出す。長いこと、身も心もすくめて情報に身を晒していたせいで、腰から首にかけて筋肉が引き攣っているようだった。
 ペダルを強く踏む。主人のいなくなった桃園が見える。いつのまに咲いたのか、濃いピンクの点々が灰色の空に滲んでいる。まっすぐに伸びた枝も、暖かみのあるオレンジ色だ。いつのまにか春は近づいていた。
 近くの畑にはペンペン草がもう生えて、その隣には名前を知らない紫色の花。向こうには、山茱萸やミモザの畑が黄色い炎となって燃え立つよう。同じ黄色でも、山茱萸は垂直に伸びた小豆色の枝に一粒一粒灯るような濃い黄色で、ミモザの花はライム色の小葉に守られて、ひとかたまりに圧縮されてはじける炭酸飲料レモンイエローだ。枯れたミモザの葉や枝がやさしいサーモンピンクなのも初めて知った。よく見ると、畑の土までぼんやり暖色を帯びている。
 またペダルを踏む。この辺りで唯一武蔵野の自然が残っている雑木林に入る。木々の枝はまだ黒く裸のままだが、落ち葉のあいだから伸びた草の色はやはり暖かい。そのなかをついばむものを探して、ツグミたちがヒヨヒヨ歩いている。僕も自転車を降りて歩いていく。黒々とした林の尽きるところで、大きな白梅の木が煙るような薄桃色に発光していた。
 近寄って見ると、花弁の白と萼の赤のなんと潔い鮮やかさ。中心の蕊の黄色は星の形だ。小さな花火のように、一輪一輪が冷たい空気のなかで震えている。太い幹から直に伸びた若枝に並んで咲いているのも、まるで精霊のつくり物のようだった。
 離れ際なんども振り返り、白い空、黒い林を背景に、薄桃色が半透明に燃え上がるのを見た。木全体が凛とみなぎっている気配。世界は生きているのだ。

 さあ、雨が来る前に街まで辿り着かなくては。僕はさらに強くペダルを踏んで、坂を上がって行った。

2015年3月6日金曜日

先日、憲法のほんの一部を訳してみて感じたこと。

やはり僕らのこの憲法は、激しい戦争が終わったあとの厳しい時間のなかで編まれたもので、そのときにしかない、異常なコアな熱い思いを、英文の原典はいまも確かにくっきり残しているってことだった。

それは戦後の日本の社会を刷新するために、この憲法を草案したアメリカのリベラルな若者たちの渾身の夢であって、その理想の高さと誠実さに胸が熱くなる。

ここには、ほぼすべて西洋文明が勝ち取ってきた市民革命の、すなわち民主主義の価値観がそのまま表現されている。僕ら日本人は西洋のように、この価値観を革命によって勝ち取ったわけではない。しかし革命よりさらに悲惨な敗戦によって「勝ち取った」のだ。
これを手放すことはできない。できない!

できない!

いま、自民党が出している憲法草案は、そういう歴史から得たのものをすべて(平和主義も基本的人権も国民主権も)排除している。

あるいは意味をなさないような形に「言葉だけ」残しつつ形骸化しようとしてる。
僕の訳した97条のところも、自民党草案ではきれいさっぱり削除されていて、

彼らはこの国を、戦前のような戦争国家、英米と肩を並べらるような列強にしたいのだろうが、

そんなことは許さない。

そんなことを、いまこの国の人々が本気で許すだろうか。

2015年3月4日水曜日

憲法翻訳トライヤル その1

僕らの国の憲法の原文は英語です。
ということは翻訳の自由はあるんではないか。

誤訳は許されないけれど(たぶん誤訳しているだろうけれど)。
訳すということはテキストを読み、理解するためのいちばんの初手です。

ということで試みに、97条を僕なりの言葉に訳してみました。

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第97条 本源的な人間の権利、つまりこの憲法が日本の人々に保証する「基本的人権」とは、人類が長いあいだ自由になるために闘ってきて得た一房の「果実」なのだ。それはくり返し厳密な検証によって「永続性」が証明されてきたものだ、そしていまの世代から未来の世代へ、いついかなるときも侵されざるものとして確かに託されてゆくべきものなのだ。

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ここは憲法「第10章 最高法規(Supreme law)」のなかの1条です。
憲法のキモのキモでもあります。
ちなみに自民党の草案は「最高法規」の部分からこの「基本的人権」の概念をすべて削除しています。

ったく!

ちなみに原文はこれです。

article97:The fundamental human rights by this constitution guaranteed to the people of japan are fruits of the age-old struggle of man to be free; they have survived the many exacting tests for durability and are conferred upon this and future generations in trust, to be held for all time inviolate.

そして、現行の翻訳はこれです。

第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

2015年2月27日金曜日

軍隊とは? と考える夜。

いま日本は軍隊を持っていない。
自衛隊は軍隊ではないからだ。

軍隊とは自国益のために他国の
人を殺す「権利」を持ってる集団のことだ。

「人を殺す権利」

そんな「権利」が理論上ありえるか。

人を殺す欲望

なら、ありえるだろう、
だがそれは「権利」には至らない。

なぜなら、
欲望=意思において「殺したい」という現実が在ったとしても、
しかし、その「殺したい」思いの結果=成果が
その行為者にとって最善であったかどうか、それは結論できないから。

なぜなら、
人は人と協働することにより利益を得ても、
人を殺す=現存在を抹殺することによっていかなる利益が得られるか正確には想像できないから。
もしもその行為が行為者に最善のものをもたらさないのだとしたら、
その欲望=意思は、その人(行為者)の「権利」だったとはいえない。

むしろ、その欲望=意思そのものがその人にとっての害悪だったと言われるだろう。

ボクはそう考える。そう考える人間だ。

よって、「人を殺す権利」を主張するような軍、軍隊とは、
人間精神にとっての矛盾であり、というより思考停止状態であり、

僕らの叡智の結晶である現憲法からいっても、、まったく相容れない概念だ。

2015年2月18日水曜日

沖縄のこと その4


栄町を出てから桜坂の方へ、
那覇に来るとボクはたいていここらの路地をウロウロする。

そして浮島通りへ

今回の旅のおまけに、いちばんさわやかだった発見は、桜坂から浮島通り、さらに国際通りを横切ってニューパラダイス通りに美味しそうなカフェーやかわいい雑貨店、器屋さんなんかがポッポッとできていたこと。
初めて那覇に来た時から浮島通りはいちばんオシャレな通りだった。もう10年前のことだ(ポールスミスのアウトレットショップとかあったし。いまもあるし)。
それが今回の旅ではググッと進化していた感じ。

そんな浮島通りの小さなアクセサリーショップのオーナーにふと話を聞いたり。

ー カフェとか雑貨屋さん、すごくないですか。

ー 僕もそうですが、3.11のあと移住してきた若い人たちがたくさんいるんです。みんなでがんばっているんですよ。あ、これどうぞ。

と、浮島通りからニューパラダイス通りまでを網羅した散歩ガイド。

ー へえ。さっき栄町へも行ってきたんですが、なんか那覇がまた楽しい街になってきていますね。

ー そうなるといいんですけどね。

コザの暗さのことを話したら、なんか商店街のオーナーたちが高齢化して、店舗を貸し出すより、いまのままで十分収入があるから発展しないんだというようなことを教えてくれた。

あー、今回の旅は、ブームの宮沢くんご贔屓の台湾精進料理屋さんも味わえたし、桜坂劇場で映画も観れたし。那覇の新しい展開も感じられたし。
当初の予定のように座間味には行けなかったけど、沖縄はいつだって僕を目覚めさせてくれる。

この島の光と闇を感じつつ、

いまおもえば辺野古へも行きたかった。





ていうかいますぐにも辺野古へ飛びたい。くそ!




2015年2月14日土曜日

「花燃ゆ」と人権思想のこと

ほんのささいなプレゼンツに

ひとの心が動く
ただそれだけのことが
そのことが「人権」というものの根っこにある根拠

生きている人のすべての人の権利の根拠だ

それだけで人は変われる。

万物皆我に備わる
身を反みて誠あらば
楽しみこれより
大なるはなし

孟子の言葉に
僕は聞く
たとえばスピノザ

人間精神は
神の永遠・無限なる本質の
妥当な認識を有する。

ゆえに理性的でありかつ自由であると。

同じこと。

基本的人権
国民主権
また平和主義