2015年3月23日月曜日

オウムの犯罪と日本人の思考停止状態について

オウムの事件について僕が思うことは、あの1995年3月20日の事件から数週間のあいだに日本人の心理と社会に起こった地殻変動のこと。あれ以来、日本人の思考は一部停止状態にさせられていること。

そのことのほうがオウムが企んだ呪いではなかったかということだ。

当時、僕はやや暇な身分だったので日中からテレビに釘付けだったけど、あのときブラウン管の向こうで起こったドラスティックな変化には唖然としたものだった。

事件直後からオウムへの疑惑は起こった。しかし当時のテレビ局を含めマスコミというのはいまよりずっとリベラルだったし、反政府組織への理解と存在意義をちゃんと認めていた。

否、マスコミの意義そのものが政府を批判するべきものだという自覚があったのだ。

テレビは、あの日々、事件から数日のあいだ、オウムからは上祐氏を迎え、オウムを批判する論客はもちろん擁護する論客もいっせいに出演させて、偏ることのない議論を昼も夜も放送していた。

しかし警察が上九一色村のオウムのアジトへ突入し、やがてその犯行が明らかになるに従って、ある日テレビも人々もいっせいにひとつの潮流へどっと流されていったのだ!

一気にだれもが「オウムはとんてもない悪だ」「絶対的に滅ぼすべきである」となった。まるで、人類の歴史が結核菌や天然痘ウィルスを撲滅してきたように。

あの、ひそかに遂行された、たしかなドラスティックな変化。
あれほど根源的に戦後の日本人の心理と社会を変えてしまった出来事はなかったのではないか。

人々のこころがザザッと変化してしまったとき、僕は呆然とした。

あの日以来、日本の人びとは、この世に「絶対的な悪がある」と思うようになった。

それから9.11があり、ISの出現があり、いまも僕らの思考は停止したままだ。

「いかなる者らであろうとも、人間のやることに絶対的な悪などないのだ」
と、大声で云えるような、リベラルな空間はほんの限られたものになってしまっている。

オウム事件はいまだに解明されていない、と云うが、
だれに解明できるだろう、それが愚かでありながらも、それなりの思慮も判断力も欲望も備えたたしかに人間たちの営みであったことを否定し、菌やウィルスと同等の存在理由しか与えない社会に。

もっとも日本は、近隣諸国を苦しめ虐殺するようなあんな戦争をなぜ起こしてしまったのか、それさえ解明しないままあいまいのままやってきたのだから。
すべてはあいまいのままでいくのだろう。

(というよりも、当時、戦争を犯した罪と責任をいまだ清算しきれていなかった戦後日本人の懊悩が、「絶対悪」の出現によって一気に解消されたようなごまかしが起こったのかもしれない。あのころはたびたび起こった戦争責任論の無限ループ論議が、あれよりいまはなくなったように思う)

あの日「オウムを絶対悪だ」と決めた日から、日本人の思考は停止していると思う。

あれがいかに残酷な犯罪だったとしても、人間の行う営みに「絶対的な悪」などというカテゴリーはないのに。

なぜオウムが生まれなければならなかったのか。
なぜ多くの優秀な理系の若者がオカルティックな宗教団体に惹かれていったのか。
あのとき、あのような集団が生まれるべき理由がたしかにどこかにあったのだ。

そういう角度で語られる言葉は現在の日本には少ない。

あの日々、あえてテレビに出演していた中沢新一さんがよく言っていたことは「盥の水といっしょに赤子まで流してはいけない」という警句だった。

そこには赤子がいたんだ。と僕は思う。
赤子とともに多くの闇が潰されたんだと思う。

それ以後の、神戸の事件も佐世保の事件も秋葉原も名古屋の女子大生も、オウム以後の閉塞感と関わっているように思うし、

当時あった日本社会の歪み(それはいまもあると思う)、それが分からないかぎり、「絶対悪」で済まされてしまうかぎり、そこで日本人の思考は絶望的に停止したままだろうと思う。

2015年3月18日水曜日

2011年3月19日の日記から

 2011年3月19日 快晴

 空は晴れ、世界にはまんべんなくあたたかい陽射し。たまさかの僥倖。
 本日東京の放射線量は0.047マイクロシーベルト毎時。平常よりはまだ多いが、国際原子力機関が「都内に健康上の危険はない」と発表したせいか、テレビもいつも通り平凡になったし、みんな街に出てにぎわうべきところはにぎわっているようだ。しかし被災地の状況はいまだ全体が見えず。いまも救援がないままに取り残されている人たちが海岸部に点在している。
 僕はまたひとり。ペダルを踏む力に汗ばんで、脱いだダウンジャケットを自転車のカゴに突っ込んだ。見上げると、四日前にはまだ固かった白木蓮の蕾がふくらみ始め、寒桜の葉もやわらかく空に伸びていた。
 図書館に寄り、もはや僕のなかで古びた本を返し、駅前のデパートでまたいつか会えるときのために彼女へのプレゼント(白木蓮色の下着だ)を購うと、まっすぐ南下して多摩川の川辺りに出た。
 おぼろげな、春めいた空気のなか、キャッチボールをする親子やサッカーチームの練習風景はいつも通りの河岸の景色だ。頭上に広がる大空は、くすんだ空色から柔らかな桃色へ、たしかにうつろう春の夕暮れの空だ。あと十数分もすれば陽は落ちるだろう。
 岸辺近くに大きな柳の木が一本。空に向かって新芽をライトグリーンに輝かせ、無数の椋鳥たちの棲家となっていた。なにを合図にしているのか、いっせいに黒豆のような椋鳥の影が何百と大気を揺さぶり飛び立つ風景に、こちらの心まで乱された。
 鉄橋の上を列車が走って行った。振り返ると、かすんだ西の空を、陽は今まさに沈み消えようとしていた。
 僕は目を凝らし、見つめる、自分の眼で。遠く多摩丘陵の稜線に欠けていく、光の真円を。それは地平の底へ向かってじわじわと小さくなっていく。現実には、太陽が沈んでいくのではないと科学は言う。動いているのは自転している地球のほうで、太陽が沈んでいくように見えるのは、地球上からの視点が被る「錯覚」にすぎないと。けれど「現実には」という、その「現実」とはどんな「現実」なのか。地球上からの視点もまた一つの視点ではないか、とも僕は思った。
 ——目に見えるものを信じるか、見えないものを信じるか?
 人類は、これまで徹底した実証主義によって科学的真理を積み上げてきた。だが一般人にとって、その真理が日常経験と異なる時あるいは目に見えない時、それが真である根拠は、「科学(あるいは教科書)がそう言ってるからそうなんだ」と「信じる」こと以外にない。地球が太陽のまわりを回っている風景を見ることはできないし、またインフルエンザのウィールスが体のなかで暴れている姿を見ることもできない。同じように、いまこの上空をどれだけの放射線が飛んでいるか、どれだけの放射線を体内に蓄積すると有害となるのか、それらが目に見えず、計測機器もなく、また経験もない以上、われわれはまず科学的真理≒情報を「信じる」よりほかないのだ。にもかかわらず、その情報をどのように「信じ」、そこからどのようなアクションを起こすかは、まったくもって個々人にかかっているのだ。
 いま西の空で、命尽きるように地平の底へ沈んでいった太陽は、僕の目には沈んでいったとしか見えなかった。
 沈んでしまうと空はさらに激しく燃え出した。それは、日没点を中心に黄色から濃いオレンジ色へグラデーションするラジエーターだった。自然界の放射性物質だった。そして、主観的にその「印象」を言えば、それは、没する者の悲痛の叫び、爆発的なメッセージ、まるで革命家の血のように、詩人の涙のように、辿り着かない永遠に向けて最期の光を放っているようだった。
 その外側からははやくも藍色の闇が滲み寄ってきて、夜の藍と日の名残りのオレンジとが重なり合う中間領域は、不思議な飴色に輝いていた。
 僕は自転車を降り、流れる川の水際まで、枯れ草色の葦の茂みをかきわけていった。水際は小さな崖のようになっていたが、釣り人がつくった窪みまで降りると、そこは足元まで水に触れられるほどの低さだった。そして波打つ水面には、あの上空での色彩のせめぎ合いがそのまま、まるで鏡の向こうの世界のように反映し揺らめいて、立ち尽くす僕の濡れた足元にまでしたたかに届いているのだった。
 そのとき、葦の茂みの向こうの闇から声がした。姿の見えぬその声は、ひそひそと軽やかで、よく聞くと、一人の女子学生が熱心に友人に学校での恋を相談しているのだった。
 でねえ……そうなんだけど……だってえ……でしょ……でも……ああどうしよ……
 ああ、陽はまた昇るんだ、と僕は思った。
 この世界にはまだ、見えないものへの恐怖より、見えないものへのときめきがある。あの断末魔のようなオレンジ色の死は、再びまぶしい産声となってかならず東の空に帰ってくる。それは願いでも希望でもなく、生の事実なんだと。

 ハンドルを握って堤防の上まで一気に駆け上がる。空はますます墨を流したように暮れていったが、そのまだらのなかをまだ多くの市民が当たり前のようにランニングしたり散歩したりしていたのだった。

2011年3月18日の日記から

 2011年3月18日 快晴

 午後2時46分。黙祷。目を閉じると、あのめまいのような揺れが体のなかで続いてるのを感じる。ちょうど一週間分の記憶。

2015年3月11日水曜日

2011年3月15日の日記から

2011年3月15日 曇りのち雨

 涙が流れてきそうな冷たい空だった。
 彼女はもうフランスへ帰ってしまったし、僕は朝からひとり毛布にくるまって、空からいま通常の30倍を超える値の放射性物質が舞い降りてきているというニュースを聞いていた。「ただちに人体に影響を与える濃度ではない」という。だが世界はもう目に見えないところで決定的に壊れはじめているのではないか。見えないものの恐ろしさにおびえ、僕は強い孤立感を感じていた。
 それでも、それは今日東京でまだ生きている僕らへ、被災地から届いた物理的「現実」なのだ。ここで逃げたらこの先もずっと逃げることになるだろう。
 ボクはテレビを消してネットを切ると、厚手の靴下にトレッキングシューズ、毛糸帽を目深にかぶってマスクをして部屋を飛び出す。長いこと、身も心もすくめて情報に身を晒していたせいで、腰から首にかけて筋肉が引き攣っているようだった。
 ペダルを強く踏む。主人のいなくなった桃園が見える。いつのまに咲いたのか、濃いピンクの点々が灰色の空に滲んでいる。まっすぐに伸びた枝も、暖かみのあるオレンジ色だ。いつのまにか春は近づいていた。
 近くの畑にはペンペン草がもう生えて、その隣には名前を知らない紫色の花。向こうには、山茱萸やミモザの畑が黄色い炎となって燃え立つよう。同じ黄色でも、山茱萸は垂直に伸びた小豆色の枝に一粒一粒灯るような濃い黄色で、ミモザの花はライム色の小葉に守られて、ひとかたまりに圧縮されてはじける炭酸飲料レモンイエローだ。枯れたミモザの葉や枝がやさしいサーモンピンクなのも初めて知った。よく見ると、畑の土までぼんやり暖色を帯びている。
 またペダルを踏む。この辺りで唯一武蔵野の自然が残っている雑木林に入る。木々の枝はまだ黒く裸のままだが、落ち葉のあいだから伸びた草の色はやはり暖かい。そのなかをついばむものを探して、ツグミたちがヒヨヒヨ歩いている。僕も自転車を降りて歩いていく。黒々とした林の尽きるところで、大きな白梅の木が煙るような薄桃色に発光していた。
 近寄って見ると、花弁の白と萼の赤のなんと潔い鮮やかさ。中心の蕊の黄色は星の形だ。小さな花火のように、一輪一輪が冷たい空気のなかで震えている。太い幹から直に伸びた若枝に並んで咲いているのも、まるで精霊のつくり物のようだった。
 離れ際なんども振り返り、白い空、黒い林を背景に、薄桃色が半透明に燃え上がるのを見た。木全体が凛とみなぎっている気配。世界は生きているのだ。

 さあ、雨が来る前に街まで辿り着かなくては。僕はさらに強くペダルを踏んで、坂を上がって行った。

2015年3月6日金曜日

先日、憲法のほんの一部を訳してみて感じたこと。

やはり僕らのこの憲法は、激しい戦争が終わったあとの厳しい時間のなかで編まれたもので、そのときにしかない、異常なコアな熱い思いを、英文の原典はいまも確かにくっきり残しているってことだった。

それは戦後の日本の社会を刷新するために、この憲法を草案したアメリカのリベラルな若者たちの渾身の夢であって、その理想の高さと誠実さに胸が熱くなる。

ここには、ほぼすべて西洋文明が勝ち取ってきた市民革命の、すなわち民主主義の価値観がそのまま表現されている。僕ら日本人は西洋のように、この価値観を革命によって勝ち取ったわけではない。しかし革命よりさらに悲惨な敗戦によって「勝ち取った」のだ。
これを手放すことはできない。できない!

できない!

いま、自民党が出している憲法草案は、そういう歴史から得たのものをすべて(平和主義も基本的人権も国民主権も)排除している。

あるいは意味をなさないような形に「言葉だけ」残しつつ形骸化しようとしてる。
僕の訳した97条のところも、自民党草案ではきれいさっぱり削除されていて、

彼らはこの国を、戦前のような戦争国家、英米と肩を並べらるような列強にしたいのだろうが、

そんなことは許さない。

そんなことを、いまこの国の人々が本気で許すだろうか。

2015年3月4日水曜日

憲法翻訳トライヤル その1

僕らの国の憲法の原文は英語です。
ということは翻訳の自由はあるんではないか。

誤訳は許されないけれど(たぶん誤訳しているだろうけれど)。
訳すということはテキストを読み、理解するためのいちばんの初手です。

ということで試みに、97条を僕なりの言葉に訳してみました。

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第97条 本源的な人間の権利、つまりこの憲法が日本の人々に保証する「基本的人権」とは、人類が長いあいだ自由になるために闘ってきて得た一房の「果実」なのだ。それはくり返し厳密な検証によって「永続性」が証明されてきたものだ、そしていまの世代から未来の世代へ、いついかなるときも侵されざるものとして確かに託されてゆくべきものなのだ。

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ここは憲法「第10章 最高法規(Supreme law)」のなかの1条です。
憲法のキモのキモでもあります。
ちなみに自民党の草案は「最高法規」の部分からこの「基本的人権」の概念をすべて削除しています。

ったく!

ちなみに原文はこれです。

article97:The fundamental human rights by this constitution guaranteed to the people of japan are fruits of the age-old struggle of man to be free; they have survived the many exacting tests for durability and are conferred upon this and future generations in trust, to be held for all time inviolate.

そして、現行の翻訳はこれです。

第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。