今回の公演の首謀者である西成彦さんは、ポーランド文学や比較文学の先生で、『外地巡礼 』という本で読売文学賞もとっていらっしゃいます。
夜中思考
2023年5月22日月曜日
死者たちの夏へ
2021年1月12日火曜日
フィクションとノンフィクション のはざまの「リアル」
東京国立近代美術館フィルムセンター
相米慎二監督「ションベン・ライダー」を(久し振りに)見て
ボクは歌いたい。むしょうに歌いたい気分なのだ。誰に向かって? それがわからないのが、やや不安なのだが、それでも歌いたいのだ。
ボクの叔父は、カメラと登山をこよなく愛した男で、今でこそ交通事故に会って、半身不髄、さらに頭をやられて、「ただ生きているために生きている」ような生命機械と化してしまい、車椅子での生活を余儀無くされ、ボクがボクであることすら、自分が何者であることすらわからなくなっているのだが、ボクや弟がまだ幼い頃は、冬になるとスキーへと連れていってくれ、その度に8ミリで滑って転ぶ様をフィルムに残してくれたりしたのだった。まだホームビデオなどありもしない時代で、よほどの好事家でない限り、8ミリフィルムで動画を映すことなどなかなかなかったように思う。正月などに親戚中で集まると、白いシーツを吊って部屋を暗くし、そこにスキーやらピクニックやらの絵を映写してみんなで楽しんだものだった。ときどき逆回転させたりして。トイレに立つ人の背中にまた絵が映ったりして。「ああん、見えないじゃないか!」「アッハッハ!」――ボクにとって、あれがはじまりの映画、映画の記憶のはじまりだったのかもしれないと思う。
久し振りに「ションベン・ライダー」を、映写機の大画面で見て、なんだか80年代に戻ったような既視感の中で、ボクは京橋から銀座まで歩いていた。空は白く曇って、風はなく、土曜日のオフィス街は人もまばらで、どうもいまが2003年だなんて信じられないような気分になってしまった……。
ボクの目は切れ目なく雲を追いかけ、ビルからビルへと飛びすさり、人々を映し出す。現実にはいかなるカット割もない。
相米監督のあの、長回し、ワンシーンワンカットという手法は、つまり、人生の記録としての映像美なのだと、つくづく思う。そして、その美がやはり、ボクをこよなく魅了するのだ。そのとき、そこで、カメラの向こうで、そういう事件があったのだ、という事実。それだけで、美しいのだ。
幕が開くと、木之元亮のヤクザが誘拐のための準備体操をしている。隣にいた子分の桑名将大が横断歩道を渡っていって(カメラも動いて)、デブガキ大将に話し掛ける。ガキ大将の前には、学校のプールがあって、これもガキのまんまの河合美智子と永瀬正敏と坂上忍が泳いでいて、いじめられている。河合美智子が叫ぶ「ボクは女じゃない!」すると、先生役の原日出子のヒステリックな声が入ってきて、校庭には盆踊りの準備、その周りをワルガキたちのバイクがぐるぐる回って、どうやら一学期最後の日らしい。明日から夏休みなのだ。服を着た、河合美智子と永瀬正敏と坂上忍の三人が走ってきて、デブ大将に仕返しをしようとするのだが、目の前で、デブ大将は誘拐され、呆然と見送る三人の横の学校の塀には、らくがきで「ションベンライダー」――。
ここまでがオープニングいきなり15分間のワンショット、おそらく伝説といっていいような回りっぱなしカメラなのだ。
初めて見た中学生のとき、ワンショットだったなんて気づかずに、でも無意識に「ゲゲ、これはなんだかすごいぞ」と引き込まれたのを覚えている。
その後も、どのシーンも、強引なほどカメラは回りっぱなしだ――。
コンクリの川べりでキャッチボールしながら、河合美智子と永瀬正敏と坂上忍の三人がデブ大将を追いかけて横浜まで行くことを決意するシーン。
ヤクザと警官たちが乱闘する横浜の路地で、三人が田中巡査(伊部雅刀)に出会うシーン。
薄暗いだるま船の中で、落ちぶれヤクザの藤竜也に挑むシーン。
水辺に浮かぶ材木置き場での乱闘シーン。
打ち上げ花火を背景に、シャブでラリって荒れ狂う藤竜也と、三人の切ないパーティーのシーン。
生理になった悲しさに、河合美智子が、海に潜って首まで漬かるシーン。
「バンザーイ、バンザーイ」とマッチの唄を歌いながら、踊り狂うラストシーン。
どうも、制作サイドは大変苦労したらしく、「ロングのワンショットが多すぎて切る事が出来ない。最後は仕方なくばっさり切って辻褄のあわないところは無声映画よろしく字幕を挿入して仕上げた」ということらしい。
しかし、重要なのは、物語ではなかったのだ、ということに気づく。
マトモな劇映画として見たら、「ションベンライダー」はまちがいなく破綻している。いいかげんの極致である。一つの物語とかテーマとかに向かって、カット割りや編集が、すき間なく構成され、配置されたというような気配はまったくない。一つの長いショットとショットがほとんど脈絡もなく接続され、イメージが延長されてゆくのだ。
しかし、物語など、なにほどのことでもない、ということにあらためて気づく。
ただ、そのとき、その場所で、河合美智子や、永瀬正敏や、坂上忍や、あるいは、藤竜也や原日出子らが、騒いで、はしゃいで、傷ついて、呆然としていたとう事実だけが、忘れがたく心に残るのだ。
そこに、カット割りや編集による、「操作」がありえないという保証によって、事実が「リアル」に迫ってくるのだ。
ただただ、そういう過去があったという事実が、せつないのだ。
長回しを成立させるためには、大変な準備を必要としたのだと思う。
ロケーション、小道具、エキストラ、天候、きっかけ、タイミング、段取りの打合せに、リハーサル、無線でやり取りをし、助監督は走り回って、起こりうる事故を計算し、準備し、そうして、後はカメラが何を見るかに任せたのだと思う。フィクションを、極限までノンフィクション化していくためのあらゆる努力が払われたのだと思う。
そうして、そこにあるのは、カメラの向こうで起こっていることだけが「リアル」なドラマなのだ、という信念なのである。
今ではたいてい編集やカット割りという技術的な操作によって、事件はするりと「物語」に変換させられている。それがあたりまえだ。テレビドラマや映画だけの話ではない、ドキュメント番組やニュース映像ですらそうなのだ。
物語は技術的につくられるのだ。「リアル」は、わかりやすく、知的に編集され処理されて「物語」として仕立てられる。それが現代のボクらを取り巻く映像のほとんどだ。
なぜなら、生の「リアル」は受け入れがたいほどに、訳のわからないものだから。そんな訳のわからないものは商品にならないからだ。
しかし、80年代には、まだ、相米監督たちがいて、あのように(無謀にも)敢えて、「リアル」を追求する力があったのだと思う。
だから、本当に、僕は歌が歌いたいと思った。
始まりがあって、目的があって、終わりがある。結末がある。
これは理屈だ。だが、これが「物語」なのだ。
しかし、ボクらの人生は、人生の「リアル」は、決してそんなふうには仕立てられてはいない。始まりもなければ終わりもなく、目的すらさだかではない。徹頭徹尾に不透明なのだ。
そんなあいまさに、「物語」はわかりやすい幻想を与えてくれるのだが、それは幻想にすぎないのであって、「リアル」の方は、フィクションとノンフィクションのはざまで、相変わらず、徹頭徹尾に不透明なまま、ボクらを脅かしているのである。
ひとつの歌なのだ。
ひとつのシーンを撮るという事件が、ひとつの詩だったのだ。
詩から詩への連鎖が、ひとつの映像詩集として、「ションベンライダー」としてまとめられていたのだ。
そう思ってみるととき、この作品はおそらく、やはり、日本映画史に残る名作として、何百年後も残っていくくらいのもんだろうと、ボクは哀しくも思うのである。
2003.05.17
JIN
2020年6月30日火曜日
安心と、安全と――いまのボクらのコロナとの付き合いってこういう感じかと思う。
いまのボクらのコロナとの付き合いってこういう感じかと思う。
原発のいわゆる「安全神話」。あれは安全などなにも保障していなかった、あれが担保したのは人々の安心(感)だった。
コロナ下の満員電車、誰も本当に安全かどうか知らない。しかし、日々の繰り返しの経験則は不安を薄めてゆき、限りなく安心へと心を導く。
オーストラリアでは外で誰もマスクをしていない。日本人の現地レポーターでさえ「はじめは不安で自分だけマスクをしてたんですけど、むしろマスクは不審がられるのでいまではしていません」と言っていた。マスクをするというのは文化なのだ。そして文化が人々に安心感を与えるのだ。
安心の反対は不安。未知の対象を前にして、われわれは不安になる。確かな情報がないからだ。それが真実何かを知らないからだ。では、どうすれば不安がなくなるかというと、その対象について正しい知識が必要かというとそうではなく、ただ、何も知らないという状況さえ解消されればよいのである。
たとえば、物体Xに遭遇した村人たち。未知のモノに、村人みな不安の嵐に陥るが、ある日誰かが、「あれは鎮守様の御使いじゃ」とか言う。確かによく見ると、鎮守様の印のようなものが刻まれている。「鎮守様の御使いじゃ」「御使いじゃ」不安というのはこれで解消されるのである。
ところが、しばらくすると、「御使いにしてはなんもいいことが起こらんなあ」という話になる。むしろ村はあい変わらず疲弊したままだ。「あんなもんは御使いでもなんでもねえ、隣国のタタリだべ」とかなる。たしかに隣国のような匂いがする。「そうだそうだタタリだタタリだ」これでも不安は解消されている。
いまのボクらのコロナとの付き合いってこういう感じかと思う。
人々が安全を得るための条件と、
人々が安心を得るための条件は違う。
安全を得るためには、科学的なエビデンスが要る。物質的な条件だ。
安心を得るためには、心理的・社会的な条件があればいいのだ。
では科学的なエビデンスが絶対かというと、どうだろうか。
こんな状況を考えてみよう。
いまにも落ちそうな揺れている吊橋があってキミはそこを渡らなければならない。
パタン1)
吊橋の強度、科学的な分析から、キミ一人が渡ることは問題ないことが立証されている。しかし、見るからに、目の前の吊橋は風に揺れ、いまにも切れて壊れそうなのだ。周りのみんなも不安そうに見つめている。
パタン2)
科学的な分析は出ていない。吊橋は風に揺れているが、もうずっと昔からこうだったと村の長老が言っている。みんなもキミのための安穏無事を祈願して「さあもう大丈夫だ」と輝いた目でキミを見守っている。キミに期待している。
どちらを選んでも同じなのだ。
それは、その時、選択を迫られたキミには、どちらを信じるかというだけのことだから。
科学者の言葉を信じるか、村のみんなの言葉を信じるか、という信仰の選択の問題だから。
信仰が安心を与えるのだ(安全ではなく)。
いまのボクらのコロナとの付き合いってこういう感じかと思う。
だから、ひるがえって考えてみよう。
安心など、ただの幻想に過ぎないんじゃないかというとそうではないんだと。
未知の物体Xを、それが何かわからないながら「あれは鎮守様の御使いじゃ」と言って安心することは人間の生きる能力なんじゃないかと。
安心するからわたくしたちは動けるし働けるのだ。危険に飛び込めるのだ。
たとえそれが認識の誤謬であっても。
このようにして、このコロナ禍で、多くの人がそのギリギリにその危険に飛び込んだのではなかったか。
でなければ、自粛のなか食べ物を得られずに死ぬ人はもっと出たろうし、経営破綻した自営業者や中小企業ももっと出ていたのではないだろうか。
人は何を信じるかなのだ。そして、なにも信じられないときは不安の中で足を踏み出せない。
人の心理は、物質的なエビデンス=科学的な論証だけでは動かせないのだ。
ここに人の恐るべきパラドックスがある。
人は安全だというだけでは動けない。動くためには安心が必要なのだが、安心にはエビデンスだけでは決して足りないし、時にはエビデンスは要らないというのだ。
2019年8月14日水曜日
如月さんの記憶。
その1)
ボクが如月小春と出会ったのは、テレビの中だった。1980年代半ばボクはいつかトーキョーでの生活を漠然と夢見てた地方都市の高校生で、如月さんはNHKの教育テレビの「週刊ブックレヴュー」という書評番組のレギュラーで、一体この人は誰?と思ったのだ。ただの美人ではないぞ。どうも演劇なるものをやってるらしいぞ、と。それでその当時、地方には演劇なるものは皆無であって、ボクの中で一気にトーキョー=演劇という(実情からいうとかなり混迷した)図式ができあがったのだった。
その2)
どうもトーキョーでは演劇というものが流行っているらしい。夢を膨らましたボクは地方都市いちばんの本屋に出かけたものの、店内には戯曲コーナーも如月小春も野田秀樹も鴻上尚史もなく、とにかく注文して如月さんの戯曲を2冊取り寄せた。なぜ、そのとき野田でも鴻上でもなく如月小春にこだわったかというと当時のニューアカブームに影響されてだったかもしれない。中沢新一はすでにボクのご当地ヒーローだったし、YMOや浅田彰とともに如月さんがそういうグループの人だという認識だったから。しかし届いた「家、世の果ての」も「工場物語」もいざ読んでみたがまったく意味がわからないのだった。
その3)
そんなある日、地方都市の高校演劇部合同発表会のような、地区大会のような、の審査員に如月さんが来るという噂でボクはいそいそと出かけて行った。初ナマの如月小春だった。彼女は、演劇のえの字の知らないボクから見てもどうにも愚にもつかないような発表(特にウチの高校!)にすら笑顔であたたかいコメントを送り、颯爽と現場を立ち去り、トーキョーへと帰って行ったのだった。じつは、ミーハーだったボクはこのとき色紙にサインをもらっていて、そこには今1985年8月2日とある。まだNOISEに入るずっと以前のことだ。
その4)
それからボクはトーキョーへの憧れとともに如月小春=NOISEの舞台を観にたびたび上京した。いちばん最初はベニサンピットの「ISLAND」だった。これはボクがはじめて自分から演劇なるものを意識して観た芝居だった。Bon Voyageの歌は今でも歌える。アンケートに「都会の生活ってこんなに苦しいんですか?」って書いたことも覚えている。それから「SAMSA」「DAILY」と観た。「DAILY」は池袋西武のスタジオ200で幕前に如月さんがタンバリンを持って登場した。それから毎月のように芝居を観にトーキョーへ通った。「遊眠社」も見た「第三舞台」も見た「SCOT」も見た。
その5)
しかし大学に入っていざ自分が夢のトーキョーに上陸してみると、浮かれに浮かれ如月小春どころでなく、自分自身がもう芝居ができるという事態に天下夢中になった。夢のような、めんめんとした日々だった。
上京したその年のNOISE公演は「砂漠」だったが、入ったサークル劇団の合宿と重なり、公演場所はT2スタジオで、合宿から帰ってきた夕方にはまだ楽日のソアレはあったのだが、バスから降りた新宿からはとても間に合わない時間だった。次の年は「NIPPON CHA! CHA! CHA! 」だった。僕はすでに劇団で演出を始めていた。予約をすればよかったのだが、マチネに遊眠社の「半神」を見たあと、中村優子を誘って世田谷美術館へ向かった。雨がしとしと降っていた。当日券で並んで待ったが、最後の最後で「見れません」と(あれはたぶん楫屋さんに)言われたのだった。その次の年の「MOON」はもう見なかった。。。
その6)
とはいえ、「仁は如月小春とNOISEが好きらしいぞー」という昔のウワサは、木霊となって跳ね返ってきた。大学生活も4年生の春、NOISEで若い男優を探してるよーという話が必然のように就職活動もなーんもしていないボク宛に入ってきたのだった。
その7)
とにかく一人ではなく複数人欲しいという話で、ボクは、ボクとしてそのとき身近で俳優として頼もしいと感じていた甲斐智堯に「NOISEで芝居しないかい?」なんて言って誘ってNOISEの稽古へ出かけたのだった。下北沢アレイだった。なーんだか、小さくてよく動く奴と、大きくてよく喋る奴の、絵に描いたような凸凹コンビが来たなというのが後に聴いた瀧川真澄さんの感想。稽古の後、当時アレイビルの2階のカフェラミルで楫屋さんと面談。ボクはNOISEファンだったことを伏せて、演出志望だとかいう話をし、まあ二人とも学生だし、多額の出演料を要求するでもなしで、楫屋さんとしてはまあいいかという感じだったと思う。まあいいか。
その8)
その時の、そのアレイでの稽古は「escape」へ向けてのプレ稽古だったと思う。NOISEではいつもやっていただろう基礎的な稽古が淡々と続いた。ストップモーション。スローモーション。アンサンブル。空間構成。などなど。何が正解なのかドキマギしながらなんとかボクらもついていく。その時だった、なんのシークエンスだったろう、何かを表現しながら単独で上から下へ通り抜けるというエチュードで、ボクはつい昨日まで大学で一緒の芝居をしていた先輩のオリジナルギャグを思い切って採用させていただいた。そして如月さんはそれを一気に全面否定した。ああ、ここではこういうおちゃらけはダメなんだというのが出発点だった。そのことはよく覚えている。
真澄さんの「2020如月小春プロジェクト」へのコメントに触発されて思ったのは、〈単独/普遍〉という軸と〈個別/一般〉という軸の差異で、この違いを見極めることがボクらは最近少なくなったのではないか、ということ! いま世界はますます〈個別/一般〉という軸で物事が処理されているように思う。そこでは物事は数量化され計測される。では〈単独/普遍〉とはなんなのか。まず肉体が空間のなかに在るということだ。そこでは質が問われ、事物=肉体は普遍化=絶対化されはしても、簡単に一般化=平準化されはしないのだ。
2017年11月16日木曜日
ベルギー戦を観て。
追記。ハリルのサッカーは強い相手に対する現実的なサッカーなんだけど、まあ面白いサッカーじゃないし、日本人にあったサッカーだとも思えない。集約すると、ゲームを組み立てるボランチのイメージの問題で、ガツガツ守備するだけでなく、やんわりとゲームを組み立てる遠藤や中村憲剛のような存在を無視しているところが気にいらないのだ。たとえば、今夜のベルギー戦で言えば、卓越したテクニックと冷静な戦術眼でたくみにボールを散らしていたベルギーのデ・ブライネなんかをハリルはどう見ていたんだろうか。
2016年5月21日土曜日
憲法のこと その3「内包と外延」
日本国の本質を言葉で示れせばよいのだ。
(そしてそれは現憲法で十分に尽くされているとボクは思う)
どんな文化や歴史があったとか、家族愛がどうとか、郷土愛とか、
(自民党の草案にはそんなような文化とか歴史とか愛とかなんとかいう言葉がいっぱい出てくる!)