2012年2月20日月曜日

共有部分3

まったく。夜中に目が覚めるといろいろ考えてしまう。
布団のなかでは思考が飛躍し、サンデル博士の「善(Goodness)」や「美徳(Virtue)」から、マンションの共有部分の話を経て、果ては「贈与感覚」のことまでスイスイ話は流れて実を結ぶのに、いざ文字にしようとするとまったくなかなか辿り着かないのだったりする。

さて、問題は「善」とはなにか?ということだ。

サンデル先生はその内実にまで立ち入らない。
サンデル先生だけでなく、名だたる哲人たちも答えてはくれない。プラトンなら「それはイデアです」というだろうし、カントなら「他人を手段として扱わないこと」とか言うだろう。
しかしそれではマンションの共有部分に関して、住民のあいだでトラブルが起こったときに具体的に「最善なもの」を示してくれはしない。

なんでもかんでもルールを盾に、四角四面に、文句を言ってくるルールオタクの住民に対して、既存のルールだけで判断すれば、鼻からルールオタクには敵わない。
本当はそやつに敵う敵わないはどうでもよく、そこからルールそのものを(その不備を)見直すきっかけになればまさに「最善」なのだが、しかしそれにも増してなんでもかんでも四角四面な現状をどうにかしたいと思うのだ。

そこで日本の庶民は考えた。
普段からその四角四面くんににこやかに取り入って、挨拶して、おだてたり、時には贈り物なんかして、「おつきあい」して、とにかくやんややんや言われるのを回避しようと。
いわゆる賄賂であり、リベートであり、贈賄である。

果たしてこれは「善」なのか?

そこはわからないが、おそらくこの贈賄は効果てき面、成功するのだ。
四角四面くんがいかに実直であっても、一度あいさつを、あるいは贈り物を受け取ってしまえば、やんややんやいうことはできなくなってしまうだろう。
それくらいこの「贈与」という感覚は強烈なものを秘めているのだ。

そして日本の庶民に限らず、この贈与の力というものを、世界中の人間が屈指し、いまも屈指し続けているのにちがいない。

そいつはアンフェアだ、公正でないと言って、社会通念として否定するようになったのは、日本に限って言えば自由主義=資本主義社会が完成に至ったつまりはグローバル社会に対応しなくてはならなくなったこの数十年のことではないか。

なぜ贈賄は「悪」なのか?

じつはボクは考えてしまったりする。のだ。

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