2012年2月19日日曜日

共有部分

夜中に考えた。
社会のルールとはなんなのか。

ボクが暮らしているマンションにもいろいろな規約があるのだが、いちいちすべての問題を、杓子定規に規約の言葉で線引きし、解決しようとするのもなんだかなあーと思う。

たとえば玄関前の通路とか、いわゆる「共有部分」といわれる場所があって、そこには私物は置いてはならないということに規約ではなっていて、それでその規約を盾に、自転車とかカートとか鉢植えとかを置いていると、あーだこーだとうるさく抗議してくるようなルールオタクな住人がいたりする。

自転車とかカートとか鉢植えとかがあったとしても、そこには十分なスペースがあり、通路にはみ出しているわけでもなく、他の住人の誰の迷惑にも邪魔にも不利益にもなっていないことは明らかなのに、である。

ただただ、そこがたしかに「共有部分」であり、規約では「共有部分」には私物を置いてはいけないという文言を理由に自転車とかカートとか鉢植えの存在を否定してくる。

こうしたルールや規則への過度の寄りかかり?というか、ルールそのものを相対化できずに、絶対視してしまうところはなんだかなあ日本、と思う。

なぜ共有部分には私物を置いてはいけないのか、なぜそのような規約が生まれたのかという根本へ苦情を言う側も言われた側も立ち戻って考えるということをしない。

ルールがルールとして生きていくのは生物と同じだけの存在理由があるように思うが、「共有部分には私物を置いてはいけない」というルールは、少なくともボクの住むマンションでは金科玉条とまではいわないけれど、暗黙の鉄板ルールとなっていて、ついぞ改正されることのないまま、だれもそれを望んではいない不幸な亡霊のように生きながらえている。

0 件のコメント:

コメントを投稿