まいない。とは古語で賄賂のことである。
さて、そんな「まいない」がどうして「悪い」のか、ボクにはいまひとつわからない。
税金も賄賂も、権力者への貢ぎ物がその起源にあり、違いは上から目線の制度でもって定められたものかどうか。制度に従っているかどうか、というだけのことだ。
税金制度は時代によってどんどん変化していくし、変化していく制度というものが常に正しいとはかぎらないし、その制度がいたって平等公平だなどと呑気なことは言わないほうがいい。
もちろん。本来は平等公平でなければならないはずだ。
しかし現状は所得税も消費税も法人税もとんでもなく不平等で見苦しいというよりほかない。
権力者の近くにいるか、権力者そのものであるほどに少ない納税=賄賂で多くの利益を上げているのが実情のよう。
仕事場で、ちょっと苦手だなとか、波長が合わないなという人といっしょに仕事をするときはとっても気を遣うし、そういうふうに気を遣ってることすら悟られないようにまた細心な気を遣ったりするけれど、そういうときは大きな声で挨拶したり、微笑んだり、ときには不自然でない形で贈り物をしたりとか必死で繋がりをつくろうとする。
どうしてそれが賄賂と呼ばれる「悪」なのか、ボクにはさっぱりわからないけれど・・・
2012年2月23日木曜日
2012年2月20日月曜日
共有部分3
まったく。夜中に目が覚めるといろいろ考えてしまう。
布団のなかでは思考が飛躍し、サンデル博士の「善(Goodness)」や「美徳(Virtue)」から、マンションの共有部分の話を経て、果ては「贈与感覚」のことまでスイスイ話は流れて実を結ぶのに、いざ文字にしようとするとまったくなかなか辿り着かないのだったりする。
さて、問題は「善」とはなにか?ということだ。
サンデル先生はその内実にまで立ち入らない。
サンデル先生だけでなく、名だたる哲人たちも答えてはくれない。プラトンなら「それはイデアです」というだろうし、カントなら「他人を手段として扱わないこと」とか言うだろう。
しかしそれではマンションの共有部分に関して、住民のあいだでトラブルが起こったときに具体的に「最善なもの」を示してくれはしない。
なんでもかんでもルールを盾に、四角四面に、文句を言ってくるルールオタクの住民に対して、既存のルールだけで判断すれば、鼻からルールオタクには敵わない。
本当はそやつに敵う敵わないはどうでもよく、そこからルールそのものを(その不備を)見直すきっかけになればまさに「最善」なのだが、しかしそれにも増してなんでもかんでも四角四面な現状をどうにかしたいと思うのだ。
そこで日本の庶民は考えた。
普段からその四角四面くんににこやかに取り入って、挨拶して、おだてたり、時には贈り物なんかして、「おつきあい」して、とにかくやんややんや言われるのを回避しようと。
いわゆる賄賂であり、リベートであり、贈賄である。
果たしてこれは「善」なのか?
そこはわからないが、おそらくこの贈賄は効果てき面、成功するのだ。
四角四面くんがいかに実直であっても、一度あいさつを、あるいは贈り物を受け取ってしまえば、やんややんやいうことはできなくなってしまうだろう。
それくらいこの「贈与」という感覚は強烈なものを秘めているのだ。
そして日本の庶民に限らず、この贈与の力というものを、世界中の人間が屈指し、いまも屈指し続けているのにちがいない。
そいつはアンフェアだ、公正でないと言って、社会通念として否定するようになったのは、日本に限って言えば自由主義=資本主義社会が完成に至ったつまりはグローバル社会に対応しなくてはならなくなったこの数十年のことではないか。
なぜ贈賄は「悪」なのか?
じつはボクは考えてしまったりする。のだ。
布団のなかでは思考が飛躍し、サンデル博士の「善(Goodness)」や「美徳(Virtue)」から、マンションの共有部分の話を経て、果ては「贈与感覚」のことまでスイスイ話は流れて実を結ぶのに、いざ文字にしようとするとまったくなかなか辿り着かないのだったりする。
さて、問題は「善」とはなにか?ということだ。
サンデル先生はその内実にまで立ち入らない。
サンデル先生だけでなく、名だたる哲人たちも答えてはくれない。プラトンなら「それはイデアです」というだろうし、カントなら「他人を手段として扱わないこと」とか言うだろう。
しかしそれではマンションの共有部分に関して、住民のあいだでトラブルが起こったときに具体的に「最善なもの」を示してくれはしない。
なんでもかんでもルールを盾に、四角四面に、文句を言ってくるルールオタクの住民に対して、既存のルールだけで判断すれば、鼻からルールオタクには敵わない。
本当はそやつに敵う敵わないはどうでもよく、そこからルールそのものを(その不備を)見直すきっかけになればまさに「最善」なのだが、しかしそれにも増してなんでもかんでも四角四面な現状をどうにかしたいと思うのだ。
そこで日本の庶民は考えた。
普段からその四角四面くんににこやかに取り入って、挨拶して、おだてたり、時には贈り物なんかして、「おつきあい」して、とにかくやんややんや言われるのを回避しようと。
いわゆる賄賂であり、リベートであり、贈賄である。
果たしてこれは「善」なのか?
そこはわからないが、おそらくこの贈賄は効果てき面、成功するのだ。
四角四面くんがいかに実直であっても、一度あいさつを、あるいは贈り物を受け取ってしまえば、やんややんやいうことはできなくなってしまうだろう。
それくらいこの「贈与」という感覚は強烈なものを秘めているのだ。
そして日本の庶民に限らず、この贈与の力というものを、世界中の人間が屈指し、いまも屈指し続けているのにちがいない。
そいつはアンフェアだ、公正でないと言って、社会通念として否定するようになったのは、日本に限って言えば自由主義=資本主義社会が完成に至ったつまりはグローバル社会に対応しなくてはならなくなったこの数十年のことではないか。
なぜ贈賄は「悪」なのか?
じつはボクは考えてしまったりする。のだ。
2012年2月19日日曜日
共有部分2
Facebookで、Atsukoさんの「立ち入り禁止区域みたいになっちゃってる。全然共用じゃない。自分たちが決めたルールじゃないからこうなるのかな 」というコメントはたしかに、本当にそうだと思う。さすがシェアハウスの本を書くだけのことはあるなあと。
そもそも「共有部分に私物を置くのを禁止します」という文言が変なのだ。ではどこが変なのか?
(これは、マンションの発売当初、マンションを売りつけた分譲会社がつくった初期設定の規約からある条文で、理事会はいまだにカスタマイズできていないのだけど、経験的に分譲会社はそのような条文を加えているようだ)
本来なら「共有」という概念は「みんなでシェアして使いましょう」ということだろう。「他の人に迷惑をかけない範囲で、だれが使ってもよいですよ」ということだ。
しかし分譲マンションの場合、分譲スペース以外はすべて「共有部分」と規定されてはいるが、じっさいは「共有」ではなく「非独占」という意味なのだ。ここに言葉のごまかしがある。
分譲マンションの「分譲部分」と「共有部分」という文言は、じつは「占有部分」と「非占有部分」という意味であって、「共有」という概念はどこにも存在しないのである。
ひとつの団体が協同で力を合わせてマンモスを狩ったとする。倒した一頭のマンモス全体がその団体のものだ。ひとつの集団でもってマンモス全体を「共有」するのだ。その認識のうえにシェアするという感覚は生まれるだろう。しかし、それぞれ個人が勝手に独占部分を主張し、奪い合うような状況には「共有」という概念=感覚は生まれ得ないだろう。
つまりこういうことも言えるだろう。分譲会社はマンションを売る際に、買い手であるオーナーたちがマンションを共有するというよりも、それぞれの一区画を奪い合うものだと定義している。そのうえでトラブルを避けるために、奪い合ってよい区画と奪い合っていけない区画をあらかじめ規定しているということだ。
だから規約の文言は「共有部分に私物を置くのを禁止します」ではなく、「非占有部分に私物を置くのを禁止します」という言葉に変えるべきなのだ。それならすべての人に納得がいくだろう。
けれどもしも「共有」というポジティブな概念を使うなら、そこからはどんなにねじくっても「私物を置いてはいけません」というネガティブな述語はゼッタイに導かれないはずだ。
+ + +
というふうに、訴えられる側も訴える側もルールを、規約を、ひるがえって根本から考えてみるということをこの国の人はしないように思う。
そもそも「共有部分に私物を置くのを禁止します」という文言が変なのだ。ではどこが変なのか?
(これは、マンションの発売当初、マンションを売りつけた分譲会社がつくった初期設定の規約からある条文で、理事会はいまだにカスタマイズできていないのだけど、経験的に分譲会社はそのような条文を加えているようだ)
本来なら「共有」という概念は「みんなでシェアして使いましょう」ということだろう。「他の人に迷惑をかけない範囲で、だれが使ってもよいですよ」ということだ。
しかし分譲マンションの場合、分譲スペース以外はすべて「共有部分」と規定されてはいるが、じっさいは「共有」ではなく「非独占」という意味なのだ。ここに言葉のごまかしがある。
分譲マンションの「分譲部分」と「共有部分」という文言は、じつは「占有部分」と「非占有部分」という意味であって、「共有」という概念はどこにも存在しないのである。
ひとつの団体が協同で力を合わせてマンモスを狩ったとする。倒した一頭のマンモス全体がその団体のものだ。ひとつの集団でもってマンモス全体を「共有」するのだ。その認識のうえにシェアするという感覚は生まれるだろう。しかし、それぞれ個人が勝手に独占部分を主張し、奪い合うような状況には「共有」という概念=感覚は生まれ得ないだろう。
つまりこういうことも言えるだろう。分譲会社はマンションを売る際に、買い手であるオーナーたちがマンションを共有するというよりも、それぞれの一区画を奪い合うものだと定義している。そのうえでトラブルを避けるために、奪い合ってよい区画と奪い合っていけない区画をあらかじめ規定しているということだ。
だから規約の文言は「共有部分に私物を置くのを禁止します」ではなく、「非占有部分に私物を置くのを禁止します」という言葉に変えるべきなのだ。それならすべての人に納得がいくだろう。
けれどもしも「共有」というポジティブな概念を使うなら、そこからはどんなにねじくっても「私物を置いてはいけません」というネガティブな述語はゼッタイに導かれないはずだ。
+ + +
というふうに、訴えられる側も訴える側もルールを、規約を、ひるがえって根本から考えてみるということをこの国の人はしないように思う。
共有部分
夜中に考えた。
社会のルールとはなんなのか。
ボクが暮らしているマンションにもいろいろな規約があるのだが、いちいちすべての問題を、杓子定規に規約の言葉で線引きし、解決しようとするのもなんだかなあーと思う。
たとえば玄関前の通路とか、いわゆる「共有部分」といわれる場所があって、そこには私物は置いてはならないということに規約ではなっていて、それでその規約を盾に、自転車とかカートとか鉢植えとかを置いていると、あーだこーだとうるさく抗議してくるようなルールオタクな住人がいたりする。
自転車とかカートとか鉢植えとかがあったとしても、そこには十分なスペースがあり、通路にはみ出しているわけでもなく、他の住人の誰の迷惑にも邪魔にも不利益にもなっていないことは明らかなのに、である。
ただただ、そこがたしかに「共有部分」であり、規約では「共有部分」には私物を置いてはいけないという文言を理由に自転車とかカートとか鉢植えの存在を否定してくる。
こうしたルールや規則への過度の寄りかかり?というか、ルールそのものを相対化できずに、絶対視してしまうところはなんだかなあ日本、と思う。
なぜ共有部分には私物を置いてはいけないのか、なぜそのような規約が生まれたのかという根本へ苦情を言う側も言われた側も立ち戻って考えるということをしない。
ルールがルールとして生きていくのは生物と同じだけの存在理由があるように思うが、「共有部分には私物を置いてはいけない」というルールは、少なくともボクの住むマンションでは金科玉条とまではいわないけれど、暗黙の鉄板ルールとなっていて、ついぞ改正されることのないまま、だれもそれを望んではいない不幸な亡霊のように生きながらえている。
社会のルールとはなんなのか。
ボクが暮らしているマンションにもいろいろな規約があるのだが、いちいちすべての問題を、杓子定規に規約の言葉で線引きし、解決しようとするのもなんだかなあーと思う。
たとえば玄関前の通路とか、いわゆる「共有部分」といわれる場所があって、そこには私物は置いてはならないということに規約ではなっていて、それでその規約を盾に、自転車とかカートとか鉢植えとかを置いていると、あーだこーだとうるさく抗議してくるようなルールオタクな住人がいたりする。
自転車とかカートとか鉢植えとかがあったとしても、そこには十分なスペースがあり、通路にはみ出しているわけでもなく、他の住人の誰の迷惑にも邪魔にも不利益にもなっていないことは明らかなのに、である。
ただただ、そこがたしかに「共有部分」であり、規約では「共有部分」には私物を置いてはいけないという文言を理由に自転車とかカートとか鉢植えの存在を否定してくる。
こうしたルールや規則への過度の寄りかかり?というか、ルールそのものを相対化できずに、絶対視してしまうところはなんだかなあ日本、と思う。
なぜ共有部分には私物を置いてはいけないのか、なぜそのような規約が生まれたのかという根本へ苦情を言う側も言われた側も立ち戻って考えるということをしない。
ルールがルールとして生きていくのは生物と同じだけの存在理由があるように思うが、「共有部分には私物を置いてはいけない」というルールは、少なくともボクの住むマンションでは金科玉条とまではいわないけれど、暗黙の鉄板ルールとなっていて、ついぞ改正されることのないまま、だれもそれを望んではいない不幸な亡霊のように生きながらえている。
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