2015年2月14日土曜日

「花燃ゆ」と人権思想のこと

ほんのささいなプレゼンツに

ひとの心が動く
ただそれだけのことが
そのことが「人権」というものの根っこにある根拠

生きている人のすべての人の権利の根拠だ

それだけで人は変われる。

万物皆我に備わる
身を反みて誠あらば
楽しみこれより
大なるはなし

孟子の言葉に
僕は聞く
たとえばスピノザ

人間精神は
神の永遠・無限なる本質の
妥当な認識を有する。

ゆえに理性的でありかつ自由であると。

同じこと。

基本的人権
国民主権
また平和主義

2015年2月9日月曜日

沖縄のこと その3



まぶしい日差しの昼間。

2014年、沖縄訪問最終日だ。
親友の家族と空港で別れたあと、飛行機の時間まで那覇の街を歩いた。

三越が撤退し、ドン・キホーテが進出した国際通り。
喧騒はあいカワラずだ。
狭い車道を自動車が押し合い、外人、ナイチャーみんなしてヘロヘロ歩くまるで竹下通り。英語に中国語、ギャル言葉にヤンキー言葉にクラクションだ。

ボクはまっ先に栄町へ向かった。
今回の旅ですでに二度、夜の栄町を訪れていた。
一回は一人だった初日。二回目は親友の家族と沖縄料理の老舗「うりずん」へ。どちらのときも栄町の夜の奥へと探検したが、そこは煌々とした店々の明かりにドキドキするような活気ある沖縄タウンだった。

そして三たびめは、その昼の顔を訪ねてみたかったのだ。
3年前か5年前か「こぺんぎん食堂」ができたころ初めてその界隈を歩いたときはまだ栄町はすたれていたように思う。観光地化した牧志の公設市場とはちがい、地元の生活者のためだけの市場。そんな雰囲気はそのころからあったけど、別段栄えているようにも思えなかった。

しかし今回訪れた昼間の栄町は、夜ともまたちがった庶民の「市場(マチグヮー)」としてたしかに生き生きと復活していた。

これは僕の撮った栄町2014の映像


復活の詳細ついてはこんな映画もあるぜ


ひとつの商店街が復興するにはたくさんの微分上の要因がある。この那覇の市場の事例が全国的に敷衍できるとも思えないし、第一ヒトの気質が違う。
しかし結局はどの商店街にも云えることは、(きっと)そこにある「オリジナリティなるもの」を信じて疑わずにどこまで押し出せるかどうか。そしてその魅力を保証するように集まってくる若者たちの存在に応えられるかどうか。
若い世代がいない空間に未来はないのだろう。

そこに本当に、
「オリジナルなもの」があるのかないのかはどっちだっていいのだ。残るのは信念と、沖縄言葉でいう肝心(ちむぐくる)さ。

最後に昼の栄町の象徴のようなコーヒー店「ポトホト」での一杯を、





さあ、パレードが動きだす。
これはお祭りなのかもしれない・



2015年2月5日木曜日

沖縄のこと その2



震災の前年以来だから4年ぶりだった。
昨年(2014年)、仙台にくらす親友の家族といっしょに、ひさしぶりボクは沖縄本島をめぐった。

ところがずいぶん変わったなという印象だった。
沿道に並ぶコンビニもショッピングモールも牛丼ファーストフードも本土のどこかの地方都市と変わらない光景で、あの10年前はじめて上陸し心踊った記憶からは「なんだかすっかり日本化されちゃったなあ」という印象だった。まあ、「日本」なのだから当たり前なのだけれど。

だけれど、衝撃的だったのはコザだ。
コザ。僕の感覚でいうと沖縄の大阪のような街。那覇が東京だとするとコザが大阪。
10年前、僕はこのコザを拠点にして沖縄本島をめぐった。そのころは活気のある街で、音楽の街、芸能の街、そして基地の街だった。夏のお祭りの季節とも重なっていて、夜遅くまで飲みに歌いにぎやかだった。
それが今回旅の夜に、親友の家族を誘ってひさしぶりのコザの街を歩いたが、賑やかだった記憶の商店街を覗くと向こうの端までガッチリ閉まった暗い世界。完璧なるシャッター街。それもなんというか、パンデミックに人の絶えてしまった街のような、ちょっとぞっとする暗さなのだ。
かつてを知り、期待もあっただけに、あれは衝撃的だった。かつてを知らない親友の家族もちょっと特別な印象に残った様子。
世界経済がグローバル化したこの20数年のあいだに、本土の地方都市の駅前商店街に見られてきたのと同じ光景だ。救いの手がないのだ。そこまで日本化なのだった。

これまで政府が沖縄へばら撒いた多額の助成金などまったくこの街には届いていないかのようだった。

2015年2月4日水曜日

i am Kenji / i am not Kenji

まいにち
このまいにちを会ってきたようで
身ぢかなひとが冷たくなってしまったときのよう

(ああトーキョーの電車の音がする・・)

穴ボコ 小さいんだけどね どうやら深くて 暗くて
その向こうから 黒づくめのあいつらがまだ覗いているようなんだ・・

笑えないような 冷たい雨のような
晴れ間の雨のような 釣り堀をさまよう小鳥のような

(キミはキミでそこで飢えをさがしているんだな)

しずかな怒りが体のなかへ
悲しみは霧となって

空へ

のぼり 沈み
目の前の日常の目の前のボクはカテーンを引く

[2015年2月2日 月齢十三夜]

利益が資本と労働のいっぽうに偏らないように
ナイフが血を求めないように

2015年1月25日日曜日

沖縄のこと その1




 半分は日本なんだけど、もう半分は日本じゃない!

 という、危ういけれど、コトの真実を見られるポジションに、ボクはほのかなあこがれを抱いてきたし、今もシンパシーをもって生きている。沖縄しかりアイヌしかりイヌイットしかりケルトしかり、で、また(ときに)演劇者もしかりだとも感じている。

 1972年「沖縄返還」のとき、沖縄では未来のことを思う人びとのあいだで「復帰」か「独立」か、はげしい議論が沸き起こった。それは、うちらウチナンチューは本来「沖縄」であって「日本」でも「アメリカ」でも「中国」でもないという感覚があり、「復帰」という言葉に実質感がなかったし、ましてや「返還」となどという言葉はどこからくるか! もともと沖縄は誰のものなのか!

 戦争は、ある日、海の向こうからやってきた。
 ヤマト(日本)のほうからは日本の軍人たちがやってきて、反対のほうからはアメリカの軍人たちがやってきて、互いに土足で島を蹂躙していった末、沖縄の人びとは15万人も死んだ。島じゅうが鉄の雨に打たれて焼けた(激しい破壊ののちに沖縄本島を占領したアメリカ軍は、捕虜となった日本軍人と沖縄住人とを別々のエリアに囲ってきっぱり分けた。それは統治上、別々の民族と認識したからだった)。

 ボクらは認めよう。いま沖縄はボクらと同じ国民で、同じ運命をともにしつつも、ボクらとはすべて同じではない少数派の人々であることを。ボクら日本の勝手な戦争で15万人の人びとが「見殺し」にされたことを。それからいまも米軍基地の70%以上を「理不尽に」押し付けてることを。いさぎよく認めよう。そしてその「倫理的な負債」をどうすれば返済できるかかんがえなければならない。

 そうでなければ、いつか近い将来に、沖縄が(ふたたび)日本本土からの独立を求める声があがるのも夢想ではないように思う。昨年のスコットランドのように。

 そういう声が起こっても不思議ではないし、起こるべきだとも、ボクは思っている。

2015年1月17日土曜日

沖縄のこと その0



 今から10年前。BEGINの「島人ぬ宝」の年だから2003年か。はじめて沖縄の地へ降り立ったとき、ここは半分、日本ではないなと肌で感じた。街のそこここに日本とはちがう、日本にはない異質な何かがいろんな意味で漂っていた。熱帯アジア特有の気候と雰囲気、琉球王国時代の文化や芸能や気質、それからアメリカの占領と基地の存在がもたらしている風俗や制度だ。時間と空間、過去と現在、ざまざまな次元で日本という閉鎖空間からは見えなかったものたちが、まぶしい日差しの向こうからボクを眺めていた。

 でも当時、そこはたしかに地政的には日本なのであって、パスポートはもちろん必要なかったし、土地の人もなぜかみんな日本語を話してるし、テレビをつければよく知っている「内地の」番組が映っていた。(内地! そう内地。本土。いまでも沖縄の人らは「県外の日本」のことをそう言う。自分らはウチナー、ほかの日本人はナイチャー。これは戦前まで沖縄がじっしつ日本の植民地だったことをしめす暗い歴史のこだまだろう)。

 半分は日本なんだけど、もう半分は日本じゃない!

 あの感覚はなんだったのか。あれにボクは興奮したのだ。あれがボクの今もやまない沖縄へのあこがれの原点となったのだ。10年前のあの日々、ボクは、まるで「世界」と「日本」とを結びつけるミッシングリングを発見したように興奮したのだった。

2012年3月3日土曜日

テネシーからアントンへ

夢のなかで芝居のことを考えている。
夢なのでいろんなことが混じってしまうのだが、今朝は布団のなかでテネシー・ウィリアムズから始まった戯曲がアントン・チェーホフに変わっていた。

長くいっしょにやってきた俳優から「チェーホフなんか好きじゃない」と言われてその一言が意外にずっと心のなかに効いていて、