2020年6月30日火曜日

安心と、安全と――いまのボクらのコロナとの付き合いってこういう感じかと思う。

安心と、安全と。

いまのボクらのコロナとの付き合いってこういう感じかと思う。

原発のいわゆる「安全神話」。あれは安全などなにも保障していなかった、あれが担保したのは人々の安心(感)だった。

コロナ下の満員電車、誰も本当に安全かどうか知らない。しかし、日々の繰り返しの経験則は不安を薄めてゆき、限りなく安心へと心を導く。

オーストラリアでは外で誰もマスクをしていない。日本人の現地レポーターでさえ「はじめは不安で自分だけマスクをしてたんですけど、むしろマスクは不審がられるのでいまではしていません」と言っていた。マスクをするというのは文化なのだ。そして文化が人々に安心感を与えるのだ。

安心の反対は不安。未知の対象を前にして、われわれは不安になる。確かな情報がないからだ。それが真実何かを知らないからだ。では、どうすれば不安がなくなるかというと、その対象について正しい知識が必要かというとそうではなく、ただ、何も知らないという状況さえ解消されればよいのである。

たとえば、物体Xに遭遇した村人たち。未知のモノに、村人みな不安の嵐に陥るが、ある日誰かが、「あれは鎮守様の御使いじゃ」とか言う。確かによく見ると、鎮守様の印のようなものが刻まれている。「鎮守様の御使いじゃ」「御使いじゃ」不安というのはこれで解消されるのである。
ところが、しばらくすると、「御使いにしてはなんもいいことが起こらんなあ」という話になる。むしろ村はあい変わらず疲弊したままだ。「あんなもんは御使いでもなんでもねえ、隣国のタタリだべ」とかなる。たしかに隣国のような匂いがする。「そうだそうだタタリだタタリだ」これでも不安は解消されている。

いまのボクらのコロナとの付き合いってこういう感じかと思う。

人々が安全を得るための条件と、
人々が安心を得るための条件は違う。

安全を得るためには、科学的なエビデンスが要る。物質的な条件だ。
安心を得るためには、心理的・社会的な条件があればいいのだ。

では科学的なエビデンスが絶対かというと、どうだろうか。

こんな状況を考えてみよう。
いまにも落ちそうな揺れている吊橋があってキミはそこを渡らなければならない。
パタン1)
吊橋の強度、科学的な分析から、キミ一人が渡ることは問題ないことが立証されている。しかし、見るからに、目の前の吊橋は風に揺れ、いまにも切れて壊れそうなのだ。周りのみんなも不安そうに見つめている。
パタン2)
科学的な分析は出ていない。吊橋は風に揺れているが、もうずっと昔からこうだったと村の長老が言っている。みんなもキミのための安穏無事を祈願して「さあもう大丈夫だ」と輝いた目でキミを見守っている。キミに期待している。

どちらを選んでも同じなのだ。
それは、その時、選択を迫られたキミには、どちらを信じるかというだけのことだから。
科学者の言葉を信じるか、村のみんなの言葉を信じるか、という信仰の選択の問題だから。
信仰が安心を与えるのだ(安全ではなく)。

いまのボクらのコロナとの付き合いってこういう感じかと思う。

だから、ひるがえって考えてみよう。
安心など、ただの幻想に過ぎないんじゃないかというとそうではないんだと。
未知の物体Xを、それが何かわからないながら「あれは鎮守様の御使いじゃ」と言って安心することは人間の生きる能力なんじゃないかと。
安心するからわたくしたちは動けるし働けるのだ。危険に飛び込めるのだ。
たとえそれが認識の誤謬であっても。
このようにして、このコロナ禍で、多くの人がそのギリギリにその危険に飛び込んだのではなかったか。
でなければ、自粛のなか食べ物を得られずに死ぬ人はもっと出たろうし、経営破綻した自営業者や中小企業ももっと出ていたのではないだろうか。

人は何を信じるかなのだ。そして、なにも信じられないときは不安の中で足を踏み出せない。

人の心理は、物質的なエビデンス=科学的な論証だけでは動かせないのだ。

ここに人の恐るべきパラドックスがある。
人は安全だというだけでは動けない。動くためには安心が必要なのだが、安心にはエビデンスだけでは決して足りないし、時にはエビデンスは要らないというのだ。